旧赤穂郡の大字中村の漁民は、この御崎東方の海濱大園と云うところの崖下岩石中に湧き出る水を常に飲料とし、この事を神の御恩と感謝し、航海業者と相謀つて其の上に小祠を建てこれを祀つたという。 社殿はもともと海中の岩礁に小祠のあつたのを、淺野家時代今の岬の突端に社宇を建設し、更に昭和5年本殿以下祝詞殿、拝殿、境内社などを約100m北寄り後方に移して現在に至つている。 |
由緒 当社は今を去る一千余年前平安朝の延喜式神名帳にその名を記載する古社で伊和都比売大社はもともと伊勢外宮の豊受比売とも云われ、また播磨国一宮の伊和大神即ち大穴牟遅神の比売神とも云われ古くから御崎明神と称せられた赤穂民族の祖神である。 もとは大園と呼ぶ前方海上の八丁岩の上にお祀りしておったのを天和3年(1683年)浅野内匠顕長矩が現在の地にお移ししたもので「播磨なる御崎の石だたみ海の底まで行くぞ見る」と歌われているように奇岩の上に老松が舞い岩礁の地である。 かつては日本海々戦の勇将東郷平八郎元帥を始め歴代連合艦隊司令長官の崇敬厚くしばしば艦隊を率いて帝国海軍の勇士が参拝し、現在でも船員漁師など航海安全と大漁祈願はあとをたたず遠近からの信仰は盛んである。 なお特に珍しいのは古くから若き男女による姫神信仰が盛んで、縁結び或いは恋人を得るにご利益のある「姫守」をうける人が多く御崎の景色と共に近時有名である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |