人皇15代神功皇后摂政3年、西海より御還幸のとき、お艦(ふね)を字須伎津の湊に泊められ、御宣託に依り此処に浄地を開き一小社を造り、玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられた。 当社鎮座地は、今は海岸から遠く離れているが、風土記新考がいうように、奈良・平安の頃には海(あるいは海浜)だったようである。 |
由緒 神功皇后摂政3年(202年)大陸交渉の際、御艦を当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、神功皇託(神様のお告げ)をお受けになりこの宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比賣(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮と号した。これが当社創建の起源であります。 後16代仁徳天皇7年(319年)8月、天皇霊夢を御覧になり、御父応人天皇御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべしと仰せになり、紀角宿禰を遣い三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになりました。 ここに当地方開闢の産土神として、祭祀信仰が今日まで、脈々と受け継ぎ生き続けていることは御神威の千古にわたる輝きを知ることができる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
魚吹八幡神社 魚吹八幡神社の起源は人皇15代神功皇后摂政3年、西海より御還幸のとき、お艦(ふね)を字須伎津の湊に泊められ、御宣託に依り此処に浄地を開き一小社を造り、玉依姫命を奉祀して敷島宮と号せられました。人皇16代仁徳天皇御霊夢を畏み給いて紀角宿根を遣わされ、上の卸三神を崇め祀られました。人皇25代武烈天皇7年に至り魚の砂吹さ寄せの故事に依り魚吹大明神宮と号せられました。 神亀2年(725)播磨大掾吉備朝距魚養公、神域を営繕しましたが、保元の頃(1156〜1158)、石清水八幡宮の別宮となり源平の乱世も公武の厚く保護せられるも、天正4年(1576)兵火に罹り社殿すべて灰尽となり祭祀の中絶のやむなきに至りました。後、正保2年(1645)網干三ヶ村、氏子協力して正殿を再建し、1600年以上にも亘り、当地方の産土神として信仰と伝統が受け継がれて来ました。今日では、氏子24ヶ町村、戸数14,000戸を擁し特に秋の例祭には見事な屋台練りと、宵宮の華麗な提灯練りが繰り広げられます。 文化財指定/敷島宮社殿、楼門(兵庫県要文化財) 社頭掲示板 |
魚吹八幡神社 魚吹八幡神社 御祭神 息長足比売命(神功皇后)左殿(向かって右) 品陀和気命(応神天皇)中殿 玉依比売命右殿(向かって左) 年中恒例祭 歳旦祭 1月1日 祈年祭・紀元祭 2月11日 厄除大祭 2月19日 武神祭 3月最終土曜日 招魂祭(境内招魂社例祭)4月22日 千燈祭 7月14日 秋季例大祭10月21日・22日 新嘗祭 11月23日 除夜祭 12月31日 千本突き 12月31日 ◎由緒 創祀は詳らかでないが、社伝によれば仁徳天皇7年と言われている。 荘園時代に石清水八幡宮の別宮となり、魚吹八幡神社と呼ばれるようになった。 旧福井荘28カ村が氏子であったが、18世紀中頃には22カ村になり、現在は、25カ村(町)になっている。 魚吹八幡神社所有指定文化財 ○敷島神社本殿(魚吹八幡神社摂社) 昭和53年3月17日県指定 三間社流造で、三方廻縁・高欄付。中規模ながら細部手法にも優れている。 社伝に正保2年(1645)網干郷民協力して正殿を再建し摂社等を整備したと伝えている。 江戸時代初期の神社建築の技法を今によく伝える貴重な文化財である。 ○魚吹八幡神社楼門 昭和54四年3月20日県指定 建築年代は不詳だが、鬼瓦及び丸瓦に「貞亨3年(1686)の刻銘がある。 三間二戸八脚入母屋造楼門で、規模も雄大で、どっしりとした重量感があり、細部手法も優れており、播磨地方における江戸時代前期の代表的な楼門である。 ○武神祭 津の宮鬼追い ・平成18年3月24日市指定 魚吹八幡神社武神祭として知られ、毎年3月最終土曜日に五穀豊穣と家内安全を祈願して営まれている行事。 鬼大鏡餅や桜と橘の造花を壇尻(献納船)にのせて氏子地区より神社まで流しという大行列をつくり、奉納した後、厄をはらうために社殿で鬼が舞う。 鬼舞は、青鬼・赤鬼の舞及び氏子五人による五鬼惣舞が行われる。 ○秋季例祭風流 ・平成19年3月9日県指定 「網干祭」・「ちょうちんまつり」とも呼ばれている。10月21日の宵宮では、平松・吉美・大江島・輿浜・新在家・余子浜・垣内の七町ごとに楼門前で提灯を激しく練り合い、22日の本宮では豪華絢燗な屋台や壇尻が華々しく練られ、姫路を代表する祭である。 ○魚吹八幡神社本殿 ・平成22年3月29日市指定 現在の本殿は正保2年(1645)の再建と伝えられる。桁行三間、梁間三間入母屋造り、正面千島磯風付き平入本殿で、屋根銅板葺きて、播磨地方において江戸崎代前期という遺構の少ない時代の建築である。 平成23年3月姫路市教育委員会 社頭掲示板 |
魚吹八幡神社 魚吹八幡神社由緒 御祭神 息長足比売命 (神功皇后) 品陀和気命 (応神天皇) 玉依比売命 由緒 神功皇后摂政3年(202)大陸交渉の砌、御艦を当字須伎津に御幸あらせられた際、皇后神託(神様のお告げ)を、お受けになり、この宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比売命(神武天皇の御母安産の神様)をお祀りし、敷島宮と号した。これが当社創建の起源であります。 後16代仁徳天皇7年(319)8月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇、御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべしと仰せになり、紀角宿根を遣し、三神を合せ祀られ、この地をお鎮りになりました。 ここに当地方開拓の産土神として、祭祀信仰が今日まで■さと受け継ぎ続けていることは御神威の千古にわたる輝きを知ることができる。 御神徳 今日八万神社の多く、八幡の神は、約2万5千を数え、神明社(お伊勢様)稲荷社と並んで代表的な神社とされている。 その根本を九州宇佐八幡宮とし、奈良時代には早くも皇室の厚い信仰を得た。後、平安時代には京都石清水八幡が勧請された。特に両宮にあっては歴代皇室の崇敬厚く、伊勢の神宮に次ぐ、我国第二の宗廟として御神徳が■された。当社も中世においては、石清水八幡宮別宮の一と数えられた。 応神天皇・神功皇后は共に大陸交渉に伴って大陸の様々な文化、技術を輸入糸、古代にあって、日本の文化の飛躍的な興隆をはかられた。更には神功皇后は仲哀天皇が崩じて後、69年間にわたり摂政として御子応神天皇を輔けられた、百歳まで生きられたと伝えられている。このことから、延命長寿の神、ひいては厄除け開運の神として信仰され、交通安全の神とも仰がれている。 社頭掲示板 |
魚吹八幡神社 神功皇后摂政3年、大陸交渉の際、御鑑が当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、皇后信託をお受けになり、この宇須伎津に浄地を開き、小社を建立して玉依比売命をお祀りし、敷嶋宮と号した。これが当社の起源であり、後に16代仁徳天皇7年8月、天皇霊夢を御覧になり、御父応神天皇御祖母神功皇后を当宇須伎津に祀るべしと仰せになり紀角宿禰を遣わし三神を合せ祀られ、この地にお鎮まりになられた。 魚吹の由来について、『播磨国風土記』には「宇須伎津」と見え、本来当地方は海べりの砂堆積地であった。神功皇后伝説と相交わり、魚が群れをなして砂を吹き寄せて、土地が出来たと言い伝えられている。これは洋の東西を問わず語られる神話的方法で、魚は人とおきかえ、すなわち多くの人々が海を埋めて開いていったと解するのが自然で、後世永く伝えるため魚吹伝説として今日まで言い伝えられた。 また網干の地名も、当社祭礼時漁民が一斉に休漁して網を干して参詣したので網干と言うようになったと伝えられる。 兵庫県神社庁 |