八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】中臣印達神社(名神大) 播磨国 揖保郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】兵庫県姫路市林田町八幡749
       北緯34度55分10秒  東経134度35分10秒
   【祭神】応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 (配祀)五十猛命
   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】
   【由緒】寛平5年(893)9月8日山城国男山より勧請

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・絵馬殿・随神門・倉・手水舎・社務所

   【境内社】高良神社・松尾神社

寛平5年(893)山城国石清水八幡宮の分霊を勧請。


由緒

その創立は宇多天皇の寛平5年(893)5月林田庄内(現在の林田町)である六九谷、口佐見、奥佐見、林谷、林構、松山、山田、大堤の八ケ部落の雄姿三十六名国土安穏、子孫繁栄の為神祇を祈る思が強かった。その時今の鎮座地の中の峯に鈴の鳴る音が頻に聞え、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。ここに有志の評議が一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請し奉るために此の社地より南十町の所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して山城国男山に上り八幡宮の分霊を勧請供奉して還った。 時に寛平5年8月15日である。同月28日社地を定め幣物を捧げ、再び9月2日三村左近藤原兼久以下三十五人列座して神酒を捧げ、同月8日仮殿を設けて遷し奉る。是が当社の創立である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



八幡神社

八幡神社
社伝によると寛平8年(893)に口佐見・奥佐見・林谷・林構・松山・山田・大堤の36名が山城国石清水八幡宮から当地鈴が峯の山麓に分霊を勧請したという。36名の子孫は小烏帽子と呼ばれ、年二回遙拝式を行うなど当社の神事に深く関わってきた。源頼朝・赤松円心・新田義貞・羽柴秀吉・池田輝政ら名だたる武将の崇敬も伝える。
江戸時代には林田藩主建部氏が当社を産土神・祈願所として崇敬し、建部政宇寄進の宇治川先陣図絵馬や政宇・政賢・政醇寄進の石燈籠など藩主ゆかりの遺品も多い。現在の祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇。
平成14年9月
姫路市教育委員会

社頭掲示板



林田八幡神社

寛平5年(893)5月、林田庄内(今の林田町)の有志36名により、国土安穏と子孫繁栄の為、神祇に祈らんとする念が強かった。その時、今の鎮座地の峯に鈴の鳴る音が頻に聞こえ、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。人々はこれを神を祀るべき地の瑞兆として評議一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請して奉る為に、この社地より南十町の所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して、山城国男山に上り、八幡宮の分霊を勧請具奉して還った(寛平5年8月15日)(893)。同月28日、社地を定め幣物を捧げ、再び9月2日に三村左近藤原兼久以下35人が列座し、神酒を捧げ、同月8日に仮殿を設けて遷し奉る。これが当社の創立である。
 延元元年(1336)新田義貞が戦勝を祈願して「神祇」の二大文字額(弘法大師の書)を納めた。また、江戸時代には池田輝政が当社を崇敬し、木製の高麗狗二躯を奉納した。
 林田藩主の建部公は、8代250年の間、明治維新まで代々当社を産土神とし、祈願所として強く崇敬し、石灯燈等の奉納がある。

兵庫県神社庁



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