西暦606年推古天皇は、摂政の聖徳太子が経典を講じた褒美に佐勢(させ)の地(後の鵤荘)を与えられた。そこで太子に仕えていた一族(今の奈良県大和郡山稗田付近の)が移り住んで、この土地を管理し、調物を斑鳩宮へ納めていた。 |
由緒 昔より鵤外十二ケ村の部落民が代々氏神として尊崇奉祀してきたもので、その縁起は抑々、氏子部落の地は人皇33代推古天皇の戌午の年6年に聖徳太子が法華勝鬘経を講ぜられ、その布施として帝より賜った地を斑鳩寺(法隆寺)、中宮寺、片岡僧寺の三寺に分納せられたもので、即ち佐勢の地五十万代の内である。故にその当時各寺より、寺地管理並に調物微収のため、多くの吏員を移住又は派遣し、其の内に寺地管理のため大和より当地に移住して来た吏員が此処に稗田氏族の祖神を奉祀する媛田神社(売田神社)を奉祀し、それを当地の人々の崇敬する所となり、代々氏神として奉仕するようになりました。 故に当神社は遠く推古時代に草創されたものである。但し草創当時の祭神は天鈿女命、猿田彦命の二神でありましたが、後世になって天鈿女命の子孫である功業高き阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになりました。 当社は神仏混淆時代になってからは斑鳩寺の権勢に圧せられて社勢が挙がらなかったのですが、明治維新以後神仏分離が確立し、明治7年2月村社に列せられ、後郷社に列せられる。 現在の社殿は昭和44年10月10日に竣工。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
稗田神社 稗田神社は、法隆寺領鵤荘の総鎮守社で、現在も旧荘域の氏神さまです。江戸時代には、聖徳太子妃の膳大娘(かしわでのおおいらつめ)をお祀りし、御旅所の聖霊権現社(斑鳩寺にあります)で聖徳太子を祀っているといわれていましたが、現在は、稗田阿礼(ひえだのあれ)をお祀りしています。 稗田阿礼は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の子孫の一族といわれ、一度見た書物はすぐに暗唱することができ、一度聞いたことは忘れない、という特殊な才能の持ち主でした。日本最初の歴史書といわれる『古事記』は、その阿礼が聞き覚えた天皇家や諸豪族に伝わる言い伝えを、太安万侶(おおのやすまろ)がまとめて作られました。 毎年、10月の第2土日曜日に行われる秋祭りでは、地元鵤地区が屋台を奉納し、にぎわいます。 太子町HP |
稗田神社 鵤外十二ケ村の部落民が代々氏神として尊崇奉祀してきたもので、その縁起は抑々、氏子部落の地は人皇33代推古天皇の戌午の年6年(598)に、聖徳太子が法華勝鬘経を講ぜられ、その布施として帝より賜った地を斑鳩寺、中宮寺、片岡僧寺の三寺に分納せられたもので、即ち佐勢の地五十万代の内である。 故にその当時各寺より、寺地管理並に調物微収のため、多くの吏員を移住又は派遣し、其の内に寺地管理のため大和より当地に移住して来た吏員が此処に稗田氏族の祖神を奉祀する媛田神社を奉祀し、それを当地の人々の崇敬する所となり、代々氏神として奉仕する。 遠く推古時代に草創されたものである。但し草創当時の祭神は天鈿女命、猿田彦命の二神であったが、後世になって天鈿女命の子孫である功業高き阿礼比売命(稗田阿礼)を奉祀することになる。 神仏混淆時代になってからは斑鳩寺の権勢に圧せられて社勢が挙がらなかったが、明治維新以後神仏分離が確立し、明治7年(1874)村社に列せられ、後郷社に列せられる。 現在の社殿は昭和44年(1969)に竣工。 兵庫県神社庁 |
稗田神社 西暦610年ごろ、山地から平地に創建される。 祭神: 旧 豊受姫大神、素盞嗚大神、猿田彦大神、天鈿女命大神 祭神: 現 稗田阿禮大神 素盞嗚大神 境内摂社:豊受姫神、太安万侶神、品陀和気神、大物主神 由緒: 西暦606年推古天皇は、摂政の聖徳太子が経典を講じた褒美に佐勢(させ)の地(後の鵤荘)を与えられた。そこで太子に仕えていた一族(今の奈良県大和郡山稗田付近の)が移り住んで、この土地を管理し、調物を斑鳩宮へ納めていた。やがて猿田彦、天鈿女命の子孫である稗田氏は朝廷に舎人として仕え、聡明で記憶にすぐれた稗田阿礼は、国記や帝紀などをよく学び、日本の国が産まれて以来の古い事柄をよく聞き覚えていた。元明天皇はその阿礼の記憶を、文字をよく知る太安万侶に書きとらせ和銅五年(712)、古事記全三巻ができあがった。やがて当社は、この日本最古の歴史書、神典ともいえるこの書を言い残した稗田阿礼を祭神として祀っていくようになった。(守護神、氏神) 太子町教育委員会 贈 太子町ライオンズクラブ 社頭掲示板 |