八幡神社
はちまんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】粒坐天照神社(名神大) 播磨国 揖保郡鎮座
   【延喜式神名帳】中臣印達神社(名神大) 播磨国 揖保郡鎮座

   【現社名】八幡神社
   【住所】兵庫県姫路市林田町上伊勢1133-3
       北緯34度54分55秒  東経134度36分46秒
   【祭神】品陀和気命
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・神饌殿・絵馬殿・手水舎・社務所

   【境内社】

上伊勢には湯屋谷に豊受大神を祀る多賀神社と、ここ追谷山麓に品陀和気命を祀る八幡神社があったが、明治7年(1874)八幡神社が村社となり、明治39年に多賀神社を合祀した。
『延喜式』にみえる「粒坐天照神社」は龍野市龍野町の粒坐天照神社に比定されるが『播磨名所巡覧図会』は伊勢村にあるとする説を載せる。
平安時代の寛平8年(893年)、口佐見・奥佐見・林谷・林構・松山・山田・大堤の36名が山城国石清水八幡宮から当地鈴が峯の山麓に御分霊を勧請したという。


八幡神社

上伊勢と多賀八幡神社
上伊勢は『播磨国風土記』にみえる揖保郡林田里の「伊勢野」に比定される。延享4年(1747)の「林田荘八ヶ村と上岡郷上伊勢村の荘郷境争論裁許状」から、10世紀前半の『和名抄』にみえる「上岡郷」を継承する地に属していたことがわかる。室町時代の上岡郷には播磨守護赤松氏の奉公人喜多野氏の所領があった。
上伊勢には湯屋谷に豊受大神を祀る多賀神社と、ここ追谷山麓に品陀和気命を祀る八幡神社があったが、明治7年(1874)八幡神社が村社となり、明治39年に多賀神社を合祀した。境内には文化14年(1817)と文政4年(1821)の燈籠がある。『延喜式』にみえる「粒坐天照神社」は龍野市龍野町の粒坐天照神社に比定されるが『播磨名所巡覧図会』は伊勢村にあるとする説を載せる。北東の山頂に神座の窟という天然の岩屋があり、その北には「岩屋亦松遠見ノ城趾」ともいう宋木(空木)城跡かある。
平成14年12月姫路市教育委員会

社頭掲示板



林田八幡神社

 寛平5年(893)五月、林田庄内(今の林田町)の有志36名により、国土安穏と子孫繁栄の為、神祇に祈らんとする念が強かった。その時、今の鎮座地の峯に鈴の鳴る音が頻に聞こえ、東の峯に鉾が立ち、西の峯に白羽の矢が立った。人々はこれを神を祀るべき地の瑞兆として評議一決し、山城国石清水八幡宮の分霊を勧請して奉る為に、この社地より南十町の所に湧出する泉(塩阜)に沐浴潔斎して、山城国男山に上り、八幡宮の分霊を勧請具奉して還った(寛平5年8月15日)(893)。同月28日、社地を定め幣物を捧げ、再び9月2日に三村左近藤原兼久以下35人が列座し、神酒を捧げ、同月8日に仮殿を設けて遷し奉る。これが当社の創立である。
 延元元年(1336)新田義貞が戦勝を祈願して「神祇」の二大文字額(弘法大師の書)を納めた。また、江戸時代には池田輝政が当社を崇敬し、木製の高麗狗二躯を奉納した。
 林田藩主の建部公は、8代250年の間、明治維新まで代々当社を産土神とし、祈願所として強く崇敬し、石灯燈等の奉納がある。

兵庫県神社庁



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