井関三神社
いせきさんじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】粒坐天照神社(名神大) 播磨国 揖保郡鎮座

   【現社名】井関三神社
   【住所】兵庫県たつの市揖西町中垣内甲799-1
       北緯34度52分33秒  東経134度31分13秒
   【祭神】天照国照彦火明櫛玉饒速日命 (配祀)瀬織津姫命 建御名方命
   【例祭】10月9-10日 例祭
   【社格】
   【由緒】崇神天皇2年創祀
       白鳳2年神宮寺を建立
       仁安元年(1166)祭神を揖保郡亀の山の社地から現在の井関山へ遷座
       延元2年頃(1337)迄に神社・神宮寺共に破損
       貞和5年(1349)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地揖保郡亀の山
        仁安元年(1166)現在の井関山へ遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三社大明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・絵馬殿・手水舎・社務所

   【境内社】荒神社・稲荷神社・天満神社・奥宮太神社

社伝には崇神天皇2年内待所の上に玉光あり、播磨国にも玉光照す所あり、之に天照国照彦大明奇魂饒早日命を祀れとの神教の随々に時の西道将軍道主命に勅して其の境に社を立て給うと云う。
社伝によれば、人皇10代・崇~天皇2年播磨国揖保郡亀の山(当社の北約2.3km・新宮町馬立の亀山H=458mか)に、天照国照彦火明命櫛玉饒速日命が勅命により鎮座されたのが創りである。
その後、亀の山より今の井関の地に遷座された年代と経緯については諸説があり判明しない。


由緒

社伝には崇神天皇2年内待所の上に玉光あり、播磨国にも玉光照す所あり、之に天照国照彦大明奇魂饒早日命を祀れとの神教の随々に時の西道将軍道主命に勅して其の境に社を立て給うと云う。白鳳2年神宮寺を建立追々隆盛になりしが人皇79代六条院仁安元年仝祭神を揖保郡亀の山の社地から現在の井関山へ遷座したが97代光明院延元2年頃迄に神社・神宮寺共に破損し御神体御仏像等も大宮司家の倉に保管する状態であったが貞和5年に再建したが小規模な神社であったらしい。永享12年4月氏子から神宮寺再建の議が起ったが社、寺共に再建せよと将軍の下知により沙汰止みとなり現在も寺はない。本社の改築は寛永5年寛文3年等に行われている。他方亀の山の社地には奥宮神社として武甕槌命を祀り赤松氏の崇敬も厚かったが嘉吉元年の乱に焼失し村中から小社を再建した。瀬織津姫命は弘治元年八瀬氏が勧請。井関に饒速日命、瀬織津姫命、亀の山に武甕槌命を祀り三社大明神と唱えて来たが、寛文12年脇坂竜野城主より諏訪神社の祭神を合祀したがやはり三社大明神と唱えた。代々領主の崇敬を受け再建修理を得て今日に至っている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



井関三神社

井関三神社由緒記
一、御祭神
天照国照彦火明櫛玉饒速日命
瀬織津比当ス
建御名方命
武甕鎚命(奥宮神社に斎祀)
二、由緒
当社の創建は今から凡そ2000有余年の悠久の昔にさかのぼる。
社伝に依れば人皇第10代崇神天皇2年播磨国揖保郡亀の山に天照国照る彦火明櫛玉饒速日命が勅命により鎮座されたのが創りである。その後時代の推移により本社がが亀の山より今の井関の地に遷座された年代と経緯については諸説があり判明しない。他方亀の山の社地には当時より武甕鎚命を祀り、奥宮神社と称し殊に足利時代には亀の山城に築城の赤松領主の篤い尊崇を受け、その後幾多の歳月をして現在に及んでいる。 瀬織津比当スは中垣内の庄屋八瀬氏により、弘治元年山城国京都より勧請合祀。
寛文12年脇坂安政公が龍野城主として入城の際、信州飯田の諏訪神社より勧請合祀。
これより井関三神社と称し前記三神と奥宮神社の一神を斎祀して幾星霜、平成の御代の今日に至る迄連綿として御神威の広大無辺なる事を仰ぎ見るのである。
三、特殊祭礼
・十年祭(開帳式)
十年毎に執行する式年祭で開帳式も同時に執り行う。神仏習合期の習俗を現在に伝えたもので神宮寺創建当時の三尊仏を開帳し、参詣者の拝観に供する。
・さいれん坊主白鳳時代(皇紀670年頃)
毎年8月14日にタ刻より当神社境内で、翌15日には恩徳寺境内で執行う。嘉吉元年の戦乱により亀の山落城の際に討死した赤松領主をはじめ一族の霊を弔うための盆供養である。現在この行事は龍野市の無形文化財に指定されていて、さいれん坊主保存会により祭礼の伝承がなされている。

社頭掲示板



井関三神社

さいれん坊主の由来について
この行事は今から凡そ560年程前(室町時代)から伝わっている祭礼で毎年8月14日の夕暮から井関三神社で翌15日には愚徳寺で執りおこなう。 室町時代に播州地方を統治していた赤松氏が嘉吉元年(西暦1441年)に山名氏の統いる軍勢にかかり亀の山城において討死した赤松一族の霊を弔うために近隣の住民が雨請いの行事に事寄せて執行なった供養が創始だとする説が概ね正しいのではなかろうかと思う。
古来は室津の賀茂神社の祭礼・姫路市網干の魚吹八幡神社(津の宮)の祭礼とともに播州の三大祭として大変賑わった時代もあったようである。江戸時代には龍野藩脇坂公の家老も参加したと伝えられているが江戸末期に喧嘩が原因で大人の参加が禁止され一時は子供主体の行事になっていたようである。近年は子供の少子化現象による行事の執行が懸念されているが古来より伝統のある行事を維持し後世に伝承してゆかねばならないとの気運のもとに地元の中垣内自治会を主体に各種団体【さいれん坊主保存会】の協賛による祭礼の盛上りを期している。
"さいれん坊主”とは「祭礼坊主』が鈍ったものではなかろうかと思う。
祭礼当日は夕暮と全時に神社近くの場所に自治会役員・小学生・幼児等が多数集合し両手でさいれん坊主を掲げ竹の丈が長いもので6・7m位のものから短かいもので1m位の竿の先端に竹を削って作成したボンボリ型の骨組に障子紙をはり中にローソクを灯して【数年前までは赤松城主の象徴である赤ボンボリ型と当時庄屋の八瀬氏の白の大鯛型の二種類があった】さいれん坊主保存会の人達の打つ太鼓と鐘鼓【この鳴物の打ち方についても数年前までは道中太鼓と祭礼太鼓の二種類があり前者は宮入までの道中を行進する時の打ち方で後者は宮入してお祓いを受け境内で円陣を組み小走で練り歩く時の打ち方】にあわせて掛声勇ましく練り歩く。《尚さいれん坊主の頭にあたる部分についての形は最近は保存会の指導等もあり子供に人気のあるアイデアを凝らした形に変化してきている》この行事が終了した後地元保存会をはじめ各種協力団体の協賛による盆踊り等があり社頭は大変にぎわう。
この"さいれん坊主"については現在たつの市の無形文化財に指定されている。以上(資料の一部は西播史談会々報「播磨」より)井関三神社宮司丸尾清彦著

由緒書



井関三神社

当社の創建は今から凡そ二千有余年の悠久の昔に遡る。社伝によれば人皇第10代崇神天皇2年(BC96)播磨国揖保郡亀の山に天照国照彦火明櫛玉饒早日命が勅命により鎮座されたのが始まりである。
 その後時代の推移により当社が亀の山より現在の井関の地に遷座された年代と経緯については諸説があり判然としない。他方亀の山の社地には当時より武甕槌命を祀り奥宮神社と称し殊に足利時代には亀の山に築城の赤松領主の篤い崇敬を受け、その後幾多の年月を経過して現在に至っている。
 瀬織津姫命は中垣内の庄屋八瀬氏により弘治元年(1555)山城の国京都より勧請合祀される。
 建御名方命は寛文12年(1672)脇坂安政公が龍野城主として入城の際、信州の飯田に鎮座の諏訪神社により勧請合祀されて之より井関三神社と称し、前記三神と奥宮神社の一神を斎祀して幾星霜、平成の御代の今日に至る迄連綿として御神威の広大無辺なる事を仰ぎみるのである。

兵庫県神社庁



井関三神社

井関三神社は崇神天皇2年(皇紀565・西暦紀元前96)、崇神天皇の詔により天照国照彦火明櫛玉饒速日大神を現在奥宮太神社が鎮座する亀山(きのやま)にお祭りした天照神社が創祀となります。
 現在奥宮にお祭りされている武甕槌大神は創祀当時より鎮座されていましたが、南北朝時代に播磨国守護赤松氏によって亀山に城山城(きのやまじょう)が築城されると、その守護神となり赤松氏一族の篤い崇敬を受けました。
 この頃に、天照国照彦火明櫛玉饒速日大神を現在の井関の本社の地にお遷し申し上げたとされています。
 以来、この二柱の神様が中垣内川沿いの平井荘、古子川沿いの桑原荘十三箇村の氏神様としてお祀りされています。
 皇室の葬送に御奉仕する鬼の末裔八瀬童子の山城国八瀬郷を出自とする八瀬氏が来住し、その氏神の瀬織津比淘蜷_を合祀して、この三柱をもって三社大明神と称しました。
 嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱により社殿を失いますが、山名氏時代に復興を遂げます。
 寛文12年(1672)に龍野藩主脇坂安政公が入部すると、信濃国飯田の大宮諏訪神社より脇坂氏の氏神である建御名方大神を勧請合祀して龍野藩領の戌亥の天門の鎮めとして篤く崇敬され、天照国照彦火明櫛玉饒速日大神、瀬織津比淘蜷_、建御名方大神の三柱をもって井関三社大明神と称するようになりました。 

由緒書



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