白国神社
しらくにじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】白国神社 播磨国 餝磨郡鎮座

   【現社名】白国神社
   【住所】兵庫県姫路市白国5-1
       北緯34度51分52秒、東経134度42分13秒
   【祭神】神吾田津比売
   【例祭】10月18日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】景行天皇の代創祀
       孝謙帝の勅命により新羅国を白国と改
       元慶元年(877)6月17日正五位下
       永万元年(1165)刀を神紙官に納む
       明治7年2月郷社
       大正6年11月8日神饌幣帛料供進神社指定
       昭和10年10月1日県社

   【関係氏族】国造白国家
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は新羅系帰化人の祖神を祀る
   【祭祀】江戸時代は「白国大明神」と称していた
   【公式HP】 白国神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神饌所・手水舎・樂舎・神門・社務所

   【境内社】八幡社・稲荷社・池鯉鮒社

景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から播磨へ下向、この白国の地に宮殿を構え、統治をした。その孫の阿曽武命の妃高富媛が出産時、大いに苦しんだ。命は倉谷山の峰に白幣を立てて神吾田津比売(木花咲耶媛)を祀り、安産を祈願した。女神が忽然とあらわれ、汝の祈りは天に通じている。とお告げになり、白幣と共に天高く舞い上がりお隠れになった。
 妃は無事に出産、神徳に感謝し、倉谷山に社殿を設けて祀ったのが創始である。
白國神社の宮司家白国氏は阿曾武命から明治時代の75代目まで続いた。当初は佐伯直を賜り、佐伯氏と称していたが白国氏に改めたようである。


由緒

当神社は凡そ1700年の昔、景行天皇の曽孫阿曽武命がその室高富媛難産苦悩に際し蒙った神恩に報いるために創祀した古いお社で御祭神の木花咲耶姫命は天照大神の御孫天津彦彦火瓊瓊杵尊の皇妃にましまし古事記神代巻に見える御事歴によって安産をはじめ広く女人守護の神とたたえられ歴代朝廷ならびに武門、領主の崇敬厚く古来安産を祈請し霊護を蒙った人々は数知れず明治7年郷社に、昭和10年県社に列せられた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



白国神社

今を去る千七百年の昔、景行天皇の皇子(稲背入命)が、大和から当地(白國)へ下向された時に宮殿を構えて統治された。孫の阿曾武命の妃(高富媛)が出産のおり大変苦しまれ、命は白幣を山の峰に立て一心に、安産を祈願されたところ、このはなさくやひめ(木花咲耶媛)が、忽然と現れ『私が永くこの地に留まり婦人を守護し安産させましよう』とお告げになり、白幣が高く舞い上がり、命が館へ帰られると妃が無事男児を出産されたといわれます。
その神徳を感謝され倉谷山の麓にこのはなさくやひめ(木花咲耶媛)を祭られたのが、白國神社の創立であると、伝承されています。

公式HP



白国神社

白国神社祭神三座の中、阿曽武命の妻、高富媛が難産のため大変苦しまれたので、阿曽武命が庫谷山の峯に上り潔清の地を選んで白幣を立て、供物を奉って神吾田津田売命を祀り、一心に安産を祈願せられたところ、女神が忽然と現われて「私が神吾田津日売である。今汝が救済を祈る気持ちはよく天に通じている。(中略)私は永くこの地に留まって婦人を守護し安産させよう」とお告げになると白幣が天に舞い上り、その白幣と共に北の高峯に、お隠れになったので急いで帰られると難なく男子を出産されていた。阿曽武命は早速庫谷山の麓に社殿を設けて、神吾田津日売命を祀られたのが当神社の創祀である。
 播磨の国四乃宮である当神社は、歴代の朝廷ならびに武門領主の崇敬厚く、元慶元年(877)6月17日に正五位下の位を賜り、また二條天皇から腰刀を下賜わされている。明治7年(1874)2月、郷社に列せられ、昭和10年(1935)10月には県社に昇格した。
 古来婦人の守護神としてたたえられ、今日もなお、播磨一円より参拝者が跡を絶えず、その神徳の高さを物語っている。

兵庫県神社庁



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