全国にある牛頭天王の総本宮と称している。(ただし、八坂神社も牛頭天王総本宮を主張している)。 天平5年(733年)、唐から帰った吉備真備が都へ戻る途中この地で神威を感じ、それを聖武天皇に報告したことにより、翌天平6年(734年)、白幣山に創建されたのに始まると伝えられる |
由緒 平野庸修の撰にかかる「播磨鏡」に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛命を報齋し」とあるが如く、西歴元年前後と説いている。其後、聖武天皇の御代天平5年(733年)吉備真備公に勅して、廣峯山に大社殿を造営、新羅国明神と稱し、牛頭天王と名付けられたと述べている。「峯相ノ記」に「播州峯相山鶏足寺(姫路市石倉西脇廃寺)参詣ス」と書き初めて「広峯山ノ事、利生揚焉ニ賞罰厳重ナル間、自国他国歩ヲ運テ崇敬スル事、熊野御嶽ニモヲトラズ万人道ヲアラソイテ参詣ス、結縁の為ニ是モ一度詣テ候之」と広く崇敬されている事を記し、次に吉備公が広峯の神を崇め奉り、牛頭天王稱した経緯を次の様に記している。元正天皇御宇霊亀二年、吉備大臣入唐ス。在唐十八年・所学十三道・殊に陰陽を極芸セリ・聖武天皇御宇天平五年帰朝云々・吉備公於当山奉崇牛頭天王也。年数ヲ歴テ平安城東方守護ノ為ス祇園荒町ニ勧請シ奉ル当社ヲ以テ本社ト為ス也」とあり。 吉備真備公は永い外国留学の末帰朝したのであるが、その修学の内、陰陽暦学を世に広めたいと考え、唐ノ国の暦書にはその国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、彼の国の故事を取り入れ素盞嗚尊を牛頭天王・天道神とし奇稲田媛命を頗梨・采女・歳徳神とし八王子の神を八将神などと配して日本暦の歴神とし、薬師如来さえ立て五節或は年中の神事。佛事も法例としたもので、「こよみ」は現代の慶弔建築等に重要されるもので当時中国文化を初めて取り入れた公が、広峯社の祭神を歴神とした事で今迄も農耕を中心とする国民の生産として崇める上に生活指針とする歴学の根源の社とされたので、生産の神の上に建築方位方崇除の神として、又、牛頭天王としての故事による病気、海陸交通厄難除の神として尚一層の広範囲の庶民の信仰を亨けたものと考えられる。又、神威として後白河法皇の御撰による「梁塵秘抄」に、関より西なる軍神として美作の中山、安芸の厳島、備中の吉備津、播磨の廣峯が挙げられ、矢野信景の「牛頭天王辨」に廣峯(播州)祇園(京師)津島(尾張)大宝牛頭(近江)と延喜以前にあるも式撰之日之を神名帳に載せずとあり近世では、広峯・祇園・津島を日本三大天王と稱されている。 斯くの如く歴史と伝統とを保持し国の重文社殿を持つ広峯社は当地方一円の誇りであり、牛頭天王総本社として自他共に認められ、皇室国家の疵護もなく唯、大衆の崇敬を得て維持されて来た神社は全国でも少ないと思われる。 当社は、京都元官幣大社八坂神社(祇園観慶寺感神院)と本社・末社の争いを永い間続けた歴史を持ち、現今では、天下の祇園社と本・末の争いをした事実は、当社の昔日の人民に支えられた繁栄を伺えるものであるが、永仁元年(1293年)に大火に罹り社殿をはじめ総てを鳥有に帰したのでわずかに残る古文書の一書、鎌倉将軍(源實朝)御教書に「播磨国広峯社者 祇園本社也云々、自今後可停止守護使乱入之状、依鎌倉殿執達如件」建保4年8月29日(1216年)信濃守(行光)この文章に続き貞応2年(1223年)北条義時下知状にも祇園本社とある。官社に列せられた祇園社に対し、当広峯社を祇園本社と認めた事は重大である。 室町時代、浪々に身で広峯社を信仰する黒田重隆夫妻と子息兵庫助夫妻(その若い妻には黒田官兵衛孝高がみごもっていたのである)が、或る日参詣し、当社神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
広峯神社 姫路市北部の広嶺・増位の連山は、西播丘陵自然公園の指定を受け、近畿自然歩道で結ばれている。その広嶺山の頂上(標高約300m)に廣峯神社は鎮座し、姫路城をはじめ姫路の市街地が一望、天気の良い日には瀬戸内海の雄大な景色が楽しめる。 当社は733年(天平5)右大臣・吉備真備公により創建された。播州の守護神として崇敬され、古くは南の大鳥居が瀬戸内海に浮かんでいたと伝えられている。本殿は入母屋造り・桧皮葺・桁行十一間もあり、拝殿(桁行十間)とともに国内最大級の大きさを誇っている。 年中行事の御田植祭・祈穀祭は特に有名で、全国各地からのお参りで境内は賑わう。最近、それに並んで注目を浴びているのが、御柱祭で、夕闇迫る境内で炎々と燃え上がる御柱は一見の価値がある。また、本殿裏の神秘なる9つの穴(自分の生まれ星)に参れば願い事が叶うという祈願参りが人気を博している。 歴代の姫路城主に尊ばれた静寂の空間に凛として気高さを保ちつづける廣峯神社は、霊験あらたかな宮居として、今もなお播磨の人々の心に深く根付いている。 兵庫県神社庁 |
広峯神社 主祭神は素盞嗚尊で733年(天平5)右大臣・吉備真備公により創建されました。播州の守護神として崇敬され、古くは、大鳥居が瀬戸内海に浮かんでいたと伝えられています。 本殿は人母屋造り、檜皮葺き、桁行十一間もあり、拝殿(桁行十間)とともに、国内最大級の大きさを誇っています。 雄々しい自然の中に凛とした気高さを保ちつづける広峯神社は、霊験あらたかなる空間として、今もなお播磨の人々の心に深く根付いています。 社頭掲示板 |
広峯神社 廣峯神社の文化財 古い歴史をもつ広峯神社には、数多くの文化財か保存されている。指定文化財には次のようなものがある。 【国指定重要文化財】 本殿 室町時代中期の様式をもち、中央七間に神殿と仏間を交互においた神仏習合の建物。(昭35・6・9指定) 拝殿 桃山時代の建立、正面一〇間の大きなもの。(昭35・5・9指定) 宝匡印塔 高2m。四方に梵字を刻み、形もよく整っている。室町時代初期の作。(昭28・8・29指定) 【県指定重要文化財】 古文書(二巻十六点)北条泰時や足利義詮の下知状など神社史料として重視すべきもの。(昭40・3・16指定) 【県指定有形民俗文化財】 宝珠図絵馬 文明17年(1485)の年号があり、県下最古とみられ、神仏習合時代のもの。(平2・3・20指定) 【市指定重要文化財】 表門 元禄10年(1697)のもの。繁雑な彫刻や絵様が少なく、上品かつ壮大な建物。(昭42・2・23指定) 摂社末社 (摂社二棟、末社八棟)江戸時代の社寺建築の変遷が判る貴重な資料である。(昭58・2・3指定) 氏重刀 明暦3年(1657)作。手柄山鍛冶の始祖大掾氏重が奉納。 (昭55・3・5指定) 【市指定無形民俗文化財】 御田植祭 (付、穂揃式、走馬式)御田殖祭は稲の豊作を祈って行う神事で毎年4月3日に神殿前で行われる。穂揃式と走馬式は4月18日に行われる神事で御田植祭と一連のもの。(昭52・3・4指定) 社頭掲示板 |
文化財 姫路市指定重要有形文化財(昭和58年(1983)2月3日指定 広峯神社 摂社・末社十一棟 一間社隅木入春日造柿葺・・・荒神社(17世紀前半) 一間社隅木入春日造檜皮葺・・蛭子社(1848) 一間社流造本瓦葺・・・・・・地養社(1687)・天神社(1724) 大鬼社(1735)・庚申社(1751) 山王権現社(1777)・冠者殿社(19世紀初頭) 一間社流造銅板葺・・・・・・軍殿八幡社(1711) 一間社切妻造本瓦葺・・・・・稲荷社(1761) 三間社流造本瓦葺・・・・・・熊野権現社(1868) 広峯神社・摂社・末社はいずれも江戸時代に属する神社本殿の建築で、17世紀前半の荒神社から19世紀後半の熊野権現社まで、江戸時代の全時代を通じた遺構群である。 各建築とも小規摸であるが、造作は丁寧で、時代の特徴をよくあらわし、技法建築史的にも優れたものである。 近世の神社本殿建築は各地に存在しているが、廣峯神社のように一か所にまとまって存在している例は極めて稀である。また、各時代の様式技法の変遷が明らかにされる点で文化財的価値は大きい。特に中期から後期にかけて変化の多い時期の様式を年代別に細分できることが重要である。 全体的な特徴は、小規模な本殿では縁束を立てずに腰貫で縁葛を支える手法を取っている。組物は出三ツ斗を組む。平面的には身舎は内外陣の区画をし、三方廻縁で正面に木階を付けている。ただし、荒神社は浜縁を設けている。 平成25年3月 姫路市教育委員会 姫路市文化財保護委員会 社頭掲示板 |