明治3年神社の社格調査をしたとき、行矢神社が、射楯兵主神社と決定したが、異議がでた。再審議の結果、射楯兵主神社は、播磨国総社と決定、この社は、行矢社射楯兵主神社となった。 |
行矢射楯兵主神社 行矢神社は、昔八丈岩山の南麓矢落村にあった。神功皇后が、韓国出兵のとき、麻生山から射た矢の落ちた所で、八丈岩山と秩父山の間である。祭神は、八丈岩山に祀られた位達神(射楯神)と、秩父山に祀られた大汝命(兵主神)である。 射楯神は、スサノオノミコトの子五十猛命で、韓国出兵のとき水軍を指揮し、農耕の振興に努めた。兵主神(伊和大神)は、この土地の開拓に努めた。土地の人々はこの二神を行矢社に祀り、落ちた矢を社宝とした。その後矢落の人々は、神社と共に現在地に移った.射楯兵主神社は、平安時代延喜式神名帳に記載され、格式の高い神社で多くの古書に、辻井村行矢社と書いてある。明治3年神社の社格調査をしたとき、行矢神社が、射楯兵主神社と決定したが、異議がでた。再審議の結果、射楯兵主神社は、播磨国総社と決定、この社は、行矢社射楯兵主神社となる。 平成19年3月安室中学校区地域夢プラン実行委員会 社頭掲示板 |
行矢射楯兵主神社 行矢射楯兵主神社由緒 当社は射楯大神と兵主大神を奉齋し、古来朝廷の尊崇極めて篤く歴代の国司領主を始め地方の衆■も亦広く崇信の誠を捧げた国内屈指の古名社である。射楯大神はまた五十猛神とも甲し素盞鳴尊の御子で父尊と共にはやく新羅国に天降りまして多くの樹種をその地に植え更に筑紫より初めて大八洲国全土に植樹せられた開発創業の有功の神である。亦兵主大神は大己貴神とも申し大国主神のことで国土経営産業創始神威無隻の神である。抑々当社御鎮座の起源は遠く神功皇后がジ三韓征伐の御首途に飾磨郡麻生山より事始めの神矢を射させられた時その矢の落ちし所に御乗船守護の射楯大神と武運必勝の兵主大神を奉祀し行矢大明神と尊称して戦捷を祈願せられたと伝えられる。因に当社には現にその時の神矢を秘宝として奉安されている。かかる由緒ある神社であるから明治3年10月姫路藩より「行矢社以来式内之通射楯兵主神社と相唱可由事」と指令せられたがその後故あつて藩議一変しこの指定は沙汰止みとなり爾来土地の字に因んで専ら生矢神社として来た、この度町民の熱誠により神社本庁より社名を行矢射楯兵主神社と改称することを認めらる。 茲に当社の尊、由緒が正しく開明せられ世の専信益々深きを加えるに至ったことは蓋し御神徳八紘に遍く御神威万世に光被すというべきである。 社頭掲示板 |