日岡神社
ひおかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】岡坐天伊佐々比古神社 播磨国 賀古郡鎮座

   【現社名】日岡神社
   【住所】兵庫県加古川市加古川町大野1755
       北緯34度46分51秒、東経134度51分39秒
   【祭神】天伊佐々彦命
       (配祀)豊玉比賣命 鵜草葺不合命 天照皇大御神 市杵島比売命

   【例祭】10月第2日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天平2年(730)創立
       慶長6年(1601)五石の黒印領
       承応元年(1652)9月姫路城主社参
       明治3年4月造営
       明治7年2月郷社
       昭和44年6月15日不審火により全焼

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「日向大明神」と称していた
   【公式HP】 日岡神社
   【社殿】本殿コンクリート権現造銅板葺
       神饌所・登殿・拝殿・御門・社務所・神興庫

   【境内社】大鳥居神社・住吉神社・熊野神社・高御位神社
        稲荷神社・天神社・恵美酒神社


神武天皇御東征の折、荒振神が悪行を催し、道中をなやませた。御謀まちまちなる折、国津神、伊佐々辺命が荒振神を亡す謀を奏し奉り、たやすく退治することが出きた。しかし、伊佐々辺命は戦死したので、天皇は大変その死を悲しまれ、戦勝を祈られた御祖神玉依姫と葺不合命の二神に、伊佐々辺命を配して三神として祀られたという。
一方で根拠は詳らかではないが、天平2年(730年)の創建とする説もある。


由緒

何時頃から祀られたものか、創立年代は不詳であるが、奈良時代、第45代の聖武天皇の御代、天平2年、約1150年程前のことであると伝えられている。延喜式の制小社に列せられ、江戸時代には、武門の崇敬を受け、板倉京都所司代より黒印領を得、これより先、慶長7年、池田輝政の命を奉じて、若原右京亮が制札を寄せ、同6年、五石の黒印領を奉げた。江戸時代には、正一位日向大明神と称せられ、明治7年2月、郷社に列せられ、日岡神社と改められた。
古来より、安産の神様として、近郷にその名を馳せる播州一の大社であります。郷民は、氏神様として仰ぎ親しみ、近時、安産祈祷で社頭を賑わせております。
大野山(日岡山)の日岡神社と、居屋河原(寺家町)の日岡神社が有り、兄弟宮といわれていましたが、昭和44年6月15日の夕方の火災により、本殿が全焼し、昭和46年復興の際、居家河原の神社を日岡山の日岡神社に合併し、昭和47年、新しく大鳥居神社を境内社として新築いたしました。居屋河原は、旧街道に面したところで、江戸時代、参勤交代で諸国の大名が通るのに、鳥居があったため、一旦、馬を降りなければならなかったので、将軍が鳥居を移転させたというような話も伝えられています。
第60代醍醐天皇の御代は、史上、「延喜の治」と云われるように、御仁慈な政治が行われ、延喜格式の選定がなされました。その中に、制小社として、「日岡坐天伊佐佐比古神社」と称せられ、記載されています。従って、「式内社」であり、由緒ある神社であります。
昭和46年7月に再建された新本殿は、鉄骨コンクリート、権現造りで、屋根は銅板で葺かれ、内装は檜造りで、縁の深い日岡山の丘に美しく調和し、参拝者の心に安らぎを与えています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



日岡神社

当神社は天平の時代(約1300年前)の創建といわれています。第12代景行天皇の皇后である稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)が最初のお産が難産で大変お苦しみになられたため、次に皇后がみごもられた時に、天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと/当神社の主祭神)が七日七夜祖神に安産を願い、無事双子の皇子を御安産なされました。その言われから当社は安産の守り神として、今日も近郷より大勢の参拝者があとをたちません。
双子の皇子の一人が有名な倭建命(ヤマトタケル)です。

公式HP



日岡神社

主神 天伊佐佐比古命(桃太都伝説モデル)
   豊玉比売命
   鵜草葺不合命
   天照皇大神
   市杵島比売命
例大祭
◆とき 10月第二土曜・日曜日
特殊神事
◆亥巳寵(いみごもリ)
一般に「おいごもりとも呼ばれ、旧正月亥の日〜巳の日まで籠もるので、「亥巳籠」と言われいます。稲日太郎姫命(景行天皇の皇后)が双生の皇子をご安産されるために黙祷した状態をそのまま後世に伝えたものだと言われています。(物忌みの生活)この期問中に安産の御神供をつくったり、(年間祈祷者に授与)頭人を定めたり、氏子を始め、地域往民の平和と繁栄をお祈リいたします。(神社では神殿を榊で囲い、シメ縄を張リ、鈴を柱に結わえていっさいの音を禁じます)明けの日(午の日)に頭渡し、的射の神事が斉行されます。
伝説
第12代景行天皇の皇后稲日大郎姫命が御懐妊され、皇子櫛角別王をお産みになられた持、非常にお苦しみになられたので、次に御懐妊なされた時、天伊佐佐比古命が七日七晩(加古の亥巳寵)御安産をひたすら祖神に御祈願なされたところ、無事美乃利の地で御安産なされました。御子はまるまると元気な大碓命と小確命の双生の皇子でした。
後に小確命は倭健命と称しました。また皇后稲日太郎姫命は神社東の日岡御陵に祀られています。
第10代崇神天皇の御代、天皇は勢カを広げるために皇族の御方を派遣しました。北陸、東海、西道、丹波がそれで、世に「四道将軍」と呼ばれています。
西道である山陽地方には第7代考霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)と弟の若武吉備津彦命を派遣しました。彼らは無事大任を果たし、その後この地にとどまりました。
この吉備津彦命が、天伊佐佐比古命であると言われています。また、この吉備津彦命の活躍は「挑太郎伝説」のモデルとも言われています。

社頭掲示板



日岡神社

祭神 天伊佐々比古命 豊玉比売命  ?草葺不合命   天照皇大神  市杵島比売命 例大祭 古来は10月初午の日であった ご由緒 創立年代不詳なれども天平2年の創立と伝えられ、延喜式の制小社に列せられ江戸時代には武門の崇敬を受け板倉京都所司代より黒印領を得之より先慶長7年池田輝正の命を奉じて若原右京亮制札を寄せ同6年5石の黒印領を捧げたり。 明治7年2月郷社に列せられ江戸時代正一位日向大明神と称し、明治以降日岡神社と改める。古来より安産の神様として近郷にその名を馳播州一の大社であります

社頭掲示板



日岡神社

主神は天伊佐々彦(あめのいささひこのみこと)です。景行天皇の皇后稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)が御懐妊された時、最初の皇子が大変難産だったため、七日七晩天伊佐々彦命が安産を祖神に祈願したところ、無事御出産されました。このことから「安産の神様」としてその名を馳せ、播磨随一の大社となりました。現在も安産祈願や御宮参りなど参拝者が絶えません。社殿に向かって右側手前に日岡御陵への表参道があります。

社頭掲示板



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