伊弉册神社
いざなみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】伊和都比売神社 播磨国 明石郡鎮座
   【延喜式神名帳】弥賀多多神社 播磨国 明石郡鎮座

   【現社名】伊弉册神社
   【住所】兵庫県明石市岬町19-8
       北緯34度38分36秒、東経134度58分59秒
   【祭神】伊弉册尊
       (配祀)素盞嗚尊 (合祀)宇迦御魂大神 金山彦大神 大山祇命 磐長比売命 木花咲耶姫命

   【例祭】10月第2日曜日 秋季例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】崇神天皇6年9月10日鎭座
       宝亀2年境内地四丁四方赦免地となり
       天正年間羽柴秀吉の三木攻撃に社殿悉く焼失
       明治12年7月2日県社
       昭和20年6月太平洋戦争の戦災にて焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「佐奈岐神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅葺
       幣殿・拝殿・社務所

   【境内社】

中世東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。この頃の境内地域は東西に連る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。


由緒

当社は延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて人皇10代崇神天皇御宇6年9月10日勧請せられた式内社であり人皇49代光仁天皇御宇宝亀2年境内地四丁四方赦免地となり、降りて別所氏三木城主たる時崇敬厚く社領五十石を寄進祭典営繕に当ったと云われ、其後天正年間減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。この頃の境内地域は東西に連る松林にて「さなぎの森」と呼ばれた。嘉吉年間赤松氏の和阪ノ戦、天文年中町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火に罹り社殿、旧記をことごとく焼失すると伝う。明治12年7月2日県社に列せられる。(旧明石郡にては最初なり)
昭和20年6月太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失、昭和37年社殿再建以後現在に至る。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



伊弉册神社

当社は、延喜式神名帳には、明石郡岩屋の土産神、伊知都比売神社で、崇神天皇御代6年(BC92年)9月10日に勧請された式内社だそうです。
49代、光仁天皇の御代、宝亀2年(771年)に境内地4町(432m)四方が赦免地となった。
その後、別所氏が三木城主の時、崇敬厚く社領50石を寄進して、祭典、営繕に当たったと云われております。
その後天正年間(1573〜1592)に減地となりましたが、東の境界地に小祠を建て御旅所とし(元の祇園さん)、西境界地にも小祠「賀(よろこび)神社」を建て、旧境内東西の境界の遺跡とされました。
この頃の境内地域は、東西に連なる松林で「さなぎの森」と呼ばれていました。
嘉吉年間(1441〜1444)赤松氏の和阪の戦、天文年間(1532〜1555)の町野入道の放火、羽柴氏の三木城攻め等の兵火に罹り、社殿、旧記をことごとく焼失したと伝えられています。
明治12年(1879)7月20日に県社に列せられました。
昭和20年6月太平洋戦争の戦災にて、社殿、社務所一切の建物を焼失し、昭和37年に社殿等再建されました。

由緒書



伊弉册神社

延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて、人皇10代崇神天皇御宇6年勧請せられた式内社である。
 人皇49代光仁天皇御宇宝亀2年(771)、境内地四丁四方赦免地となる。
 別所氏三木城主たる時崇敬厚く、社領五十石を寄進し、祭典営繕に当ったと云われる。
 天正年間(1573〜1591)減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。
 嘉吉年間(1441〜1443)赤松氏の和阪ノ戦、天文年中(1532〜1554)町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしの兵火に罹り、社殿・旧記をことごとく焼失する。
 松の巨木(名残の初代の三本松)の生い茂るサナギの森と云われた。
 明治12年(1879)、県社に列せられる。
 昭和20年(1945)、太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失。
 昭和37年(1962)、社殿再建。
 当社は物を生産する神、特に女神の信仰篤く、古くより根強い信仰を集めている。

兵庫県神社庁



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