往古少童海命が当地林崎の海浜の赤石(明石の地名はこの赤石に始まると云う)の上に現われたが、成務天皇8年戊寅秋8月風波の爲赤石が海中に没した。よつて翌9年春正月6日一社を建てて祀つたのが始まりである。 当社創祀に始まる赤石は、林崎の海中、岸より7〜8間の処にあつて、大きさは4〜5尺四方である。その色は赤く、只旧暦3月3日の大潮の日のみ海中にすかしみることが出来るという。 本殿の東約100mの住宅地の奥まったところに「立石の井」がある。 |
由緒 往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、人皇13代成務天皇8年風波のため赤石は海中に没した。 よって翌9年(西暦139年)正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。 一条天皇寛弘2年(1005年)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し上宮五社大明神と号す。 明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。 明治14年(1881年)県社に列せらる。 太古より海を見おろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所明石海峡を行き交う舟の安全を見守り給う明石で最も歴史ある神社である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
林神社 当社由緒 祭神 少童海神 彦火火出見命 豊玉姫命 葺不合尊 玉依姫命 御崎大神 由緒 古少童海命当所海浜の赤岩の上に現れ給う其石成務天皇8年8月波の為海に没す翌9年元旦社を建て同神を祀る。 延喜22年夏雨乞に験あり之より雨乞社と称す寛弘2年彦火火出見命他3神を合祭し上宮と称す江戸時代上宮五社大明神と仰ぎ明治維新林神社と復称す同14年2月県社に列す昭和20年戦災にて全焼同年舟上御崎神社を合祭。 昭和25年社殿同33年社務所再建同40年石垣玉垣を建設す。 昭和40年4月吉日 社頭石碑 |
立石の井 昔このあたりに大ダコが出没して岸崎に住む西窓后、東窓后という二人のお后をねらっていた。 二見の武士浮須三郎左衛門が山伏に化けた大ダコをたたき切ったところこの■大きな石になってしまった。 その後、いつの頃からか、この石の下からきれいな清水が湧き出るようになり「立石の井」といわれた。 明石市教育委員会 社頭掲示板 |
林神社 由緒 往古、当地海浜の巨大な赤石の上に少童海神が顕れ給うが、人皇13代成務天皇8年風波のため、赤石は海中に没した。 よって翌9年(西暦139年)正月、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられる。 一条天皇寛弘2年(1005年)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し上宮五社大明神と号す。 明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。 明治14年(1881年)県社に列せられる。 太古より海を見おろす高台から漁業の町明石の繁栄と、海上交通の難所明石海峡を行き交う舟の安全を見守り給う明石で最も歴史ある神社である。 明石の地名の起源 当社ゆかりの「赤石」から明石の地名が起こったことは広く知られるところである。 平城天皇(御在位806〜809年)当社に行幸、赤石を展覧し給う。 羽柴(豊臣)秀吉公、天正9年(1581年)参拝、舟より赤石を観覧。 雨乞い・立石の井 延喜22年(922年)旱魃(かんばつ)あり、勅命により雨を祈願し霊験あり。 以後雨乞社と称えられ、官民の尊崇をうける。 寛政6年(1794年)、旱魃の折、雨を祈るに神験あり。 昔、海中の大鱆(おおだこ)が岸崎の二人の后を悩ませていた。浮須三郎左衛門という人が退治すると鱆は山伏と化し、なおも追いかけ四つに切ると山伏は石に姿を変えた。立石の井筒の石はこれであると伝わる。 当社東方の谷にあり八尺四方の井戸から清水がこんこんと湧き出ずる名水であったが、近年付近の宅地化が進み往時の水質水量はない。 式内社 平安初期の国家の法制書「延喜式」の神名帳に搭載された当時の官社3132座を(延喜)式内社という。 延喜式巻第十に播磨国明石郡(こおり)・・・林神社一座(はやしのかみのやしろ)とある。 公式HP |
林神社 往古、当地海浜の巨大な赤石の上に、少童海神が顕れ給うが、人皇13代成務天皇8年、風波のため赤石は海中に没した。よって翌9年(139)、小高い丘に一社を建て少童海神を祀ったのが当社の創祀と伝えられ、明石最古の神社である。 一条天皇寛弘2年(1005)、彦火々出見命、豊玉姫命、葺不合尊、玉依姫命の四柱を合祀し、上宮五社大明神と称す。 明治時代、境外末社の御崎大神を合祀。 明治14年(1881)、県社に列せられる。 兵庫県神社庁 |