海神社
わたつみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】海神社三座(並名神大 月次/新甞) 播磨国 明石郡鎮座

   【現社名】海神社
   【住所】兵庫県神戸市垂水区宮本町5-1
       北緯34度37分44秒、東経135度3分15秒
   【祭神】中津綿津見神 底津綿津見神 上津綿津見神 (配祀)大日霊貴尊
   【例祭】10月11日 例祭
   【社格】旧官幣中社
   【由緒】大同元年(806)神封十戸
       貞観元年(859)正月従五位上
       天慶3年(940)正五位下
       天正11年(1583)12月21日豊臣秀吉寄進状
       万治3年(1660)8月11日造営
       貞享3年(1686)明石藩主松平直明寄進状
       延享2年(1745)8月9日造営
       明治4年国幣中社
       明治30年官幣中社

   【関係氏族】海直
   【鎮座地】古来この地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「垂水大明神」「日向大明神」と称していた
   【公式HP】 海神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神饌所・祭器庫・社務所・手水舎・神輿庫・わたつみ会館

   【境内社】猿田彦社・稲荷社・蛭子社・祇園神社

神功皇后が三韓を征って還御の時、俄に暴風が起って危機に遭ったとき、皇后綿津見神三座を祭ったところ、風波忽に静まり、三神をこの地に祀った。
難波の海の防衛の歴史から見れば、その前線の拠点が明石海峡であることは一目瞭然であり、大和朝廷の海の守の神とされた歴史によるもの思われる。
5世紀後半に五色塚古墳を造ったとされる明石国造の祖先を祀った神社ではないかという説もある。


由緒

今から千数百年の昔、神功皇后が三韓征伐を終えてお還りの時、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后が御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちまち風波がおさまり御無事に都へお還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社殿を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



海神社

由緒   今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。
この御神徳により、航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、さらに当地が海上陸上を問わず、古代交通の要地であったことから、交通安全の神としても仰がれております。
又海は万物をはぐくまる所、綿津見大神の娘 豊玉姫尊(トヨタマヒメノミコト)は彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト)に嫁がれて、皇室の親である鵜?草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)をお産みになりました。そのとき大変安産であったところから、安産の神でもあり、彦火々出見尊は満珠干珠(みつたまひるたま)の霊力によって水をつかさどり、厄難を去る神であるところから、水産業・農業をはじめ水によって生計を立てる人の守護神であり、開運厄除の神でもあります。
歴史的背景  当社周辺からは縄文・弥生時代の住居跡・土器などが発掘されており、古来より人々がこの地域で生活していたことがうかがえます。
また、当社西方約550mの所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色塚古墳があり、成立は二世紀末から五世紀初めとされ、瀬戸内海の海上航路の重要地である明石海峡大橋を望む高台に造られています。
この墳丘を覆っていた茸石は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島から運んできたものであると云われている。このことから被葬者は、海事に従事していた人々を治め、この地域に勢力をもっていた豪族であったと思われ、この時代からすでに海運が活発に行われていたことがうかがえます。
以上のことから海事に関係の深い人々がこの垂水の地には多く存在していたと思われ、航海術が未発達の当時、海上鎮護のため海大神を信奉する人々が社殿を設け祀っていたのが始まりではないかと考えられます。

公式HP



海神社

海上安全・生業繁栄・安産の守護神である海神社は、今から千数百年の昔、神功皇后が三韓よりの帰路、暴風怒涛のため、御船を進めることが出来なくなり、皇后自ら綿津見三神を祀り御祈祷したところ、たちまち風波は収まり、無事に都に帰られた。そのとき神功皇后が綿津見三神を祀った御神徳を仰いだのが、鎮座の由来である。『延書式』には、播磨の国の「名神大社」として記されている。
 航海安全・漁業繁栄の神として仰がれることはいうまでもなく、海は万物の育まる所であるので、子孫繁栄・子宝の神、また安産の神として仰がれている。
 海幸彦・山幸彦の神話に、山幸彦が綿積見大神の「満珠千珠」の霊力により繁栄したと述べられていることから、開運厄除・安産の神としても仰がれている。
 別名「衣財田大明神」とも言われていたことから、家業繁栄・商売繁盛・衣食住満足の神として広く崇敬されている。
 また、『万葉集』にも、その名が見える。近くには五色塚古墳・大歳山遺跡・舞子移情閣・明石海峡大橋がある。

兵庫県神社庁



神戸の「海神社」なんて読む?

神戸市垂水区の海沿いにあり、子の成長や豊漁祈願などで知られる海神社。地元では「かいじんじゃ」の名で通るが、実は1970年代以降に定着した呼称で、「海」を「わたつみ」と読むのが正式だ。それどころか、かつては「たるみ」「あま」の仮名を当てた時代があり、最近では「うみ」が新たに浮上。単純明快な漢字一文字の社名がたどってきた、複雑な読みの変遷とは。(小川 晶)
 海神社は、平安期以前の創建とされ、千数百年の歴史がある。明治期に定められた社格では、広田神社(西宮市)や伊弉諾(いざなぎ)神宮(淡路市)などと共に兵庫県内で8社しかない「官国幣社(かんこくへいしゃ)」(別格官幣社を含む)の一つに位置付けられていた。
 読みが最初に登場するのは鎌倉期の文書で、「海」に「たるみ」「あま」の2種類の仮名を振っている。たるみは地名の垂水から、あまは海人(あま)族が祭る神という意味から、それぞれ付けられたとされる。
 その後、別の神社との混同により海神社とは異なる社名の時代が続いたが、明治期に元の社名が復活。読みは「わたつみ」で、国学者本居宣長が、神社が祭る「綿津見神(わたつみのかみ)」にならうべき−と主張したためと伝わる。
 一連の経緯を、76年発行の「海神社史」では章を立てて説明。「千年余の伝統を尊ぶとすれば『タルミ』か『アマ』とするのが穏当」と結論付けつつ、「わたつみ」についても「本居宣長が言い始めてから既に百五十年も経(た)っているので、悪いというのではない」と認める。一方で、「かい」については全く触れておらず、同年時点では定着していなかったとみられる。
 田中宗則禰宜(ねぎ)は「呼びやすさからか、その後の40年間で急速に『かい』が広がり、伝統の読みに取って代わったのだろう」と推測する。これに対し、県神社庁の岩熊利教主事は関西特有の背景を指摘。「湊川神社の『楠公(なんこう)さん』や西宮神社の『えべっさん』のように、親しみを込めて神社を呼ぶ風習が影響しているのでは」とみる。
 神社側からすれば、宗教法人法の届け出に記載する「わたつみ」があくまで正式。しかし、今では氏子さえほとんどが「かい」と読み、ウェブサイトやメールのアドレスも「kaijinjya」を使う。
 10年ほど前には、あいまいな状態を逆手にとり、「うみじんじゃ」とする呼称案が神社内で出た。
 同音の「産み」にちなみ、安産祈願の参拝客増加を狙った。のぼりを掲げるなどPRを図ったが、目立った効果はなく、「そもそも何の根拠もない」との意見もあり、立ち消えになったという。
 田中禰宜は笑う。「どの読みが正しいとか、決めつけるつもりはありません。『かい』が浸透している以上、『わたつみ』にこだわっても混乱を招くだけですから」

2017/12/14 14:00神戸新聞NEXT



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