社伝によれば、神功皇后が三韓征伐からの帰途、当地に立ち寄り大己貴尊を祀ったのが当社の始まりという。 その後、衰微していたが延久3年(1071年)に再建されたと伝えられている。 |
惣社復興事業記念碑 惣社は、大己貴尊、素盞嗚尊、経津主尊、武甕槌尊を祀り、物部神社とも称され、延久3年(1071)の再建と伝えられている。延喜式の制に於いては小社に列し、伊川谷の総氏神として崇められ、明治7年(1874)には郷社に列せられた崇敬篤き神社である。 旧社殿は宝暦11年(1761)に造営されたものであり、社殿の老朽化に加えその後平成7年(1995)阪神淡路大地震に遭遇し、甚大な被害を受けたが、逸速く氏子崇敬者より多大な浄財を得て平成7年(1995)建設委員会を立ち上げ第一期工事として「拝殿の再建」を行ない、次いで復興委員会を組織して第二期工事として「本殿解体修復」「玉垣及び石積」「境内社建替」「手水社建替」工事に着手、8年の歳月を要し、平成16年(2004)に完成し、創建当初の様相を見るに至る。 此処に記念碑を建立し永く後世に語り継ぐものである。 社頭石碑 |
惣社 神功皇后が、朝鮮遠征の帰途、明石川から伊川を船でのぼり、ここで一休みして、「大国主命をここに祀れ」と命じたのが、この惣社の創始であると伝えられている。創立年代は詳らかでないが、後三条天皇の延久3年(1071)9月再建し、太山寺密教院の定喜法師の勧請と伝える。ここでいう勧請とは、再建の時のことをいうのであろうと思われる。 また、『延喜式』の物部神社、『国内鎮守大小明神社記』所載の明石郡九座の一つ惣部明神を、当社にあてている。5世紀後半には大和王朝が確立し、明石の囲も国造によって治められる事になり、6世紀には、大和王朝の物部系の郡司により、郡中の神社の神々を集めて祀ったことから、13世紀の鎌倉時代以降は惣社といわれるようになった。 また、江戸時代、明石城主の崇敬篤く、三石の黒印領を寄せている。神社背後の鬼神山には数基の古墳がみられ、調査の結果、鏡や土器の形式から四世紀のものと推定され、早くから文化の進んだ地域であったことがわかる。 現在の本殿は、宝暦11年(1761)に、旧社殿の古材を用いて造営されたものである。 兵庫県神社庁 |