第46代孝謙天皇の754年(天平勝宝6年)9月13日に川向の元住吉山に摂津国住吉神社から社家、津守連が楯神、鉾神ならびに神霊を勧請したことに始まる。 当初は、現在地の東、標高40メートルほどの宮山と呼ばれる山頂に鎮座した。 |
由緒 孝謙天皇の天平勝宝6年9月13日の創立にして摂津の国住吉神社の社家津守連(つもりのむらじ)が楯神鉾神と共に宮山(今の元住吉山)に勧請せしに創まる。その後疫病が流行す、そのうえ五穀が実らぬ年が続き村人ら御神託により永禄2年6月29日現在の宮地に遷し奉る。降って文禄3年の9月13日に高和の社地に御旅所を定め奉る、天正7年の6月25日兵火にかかりて社殿はことごとく焼失し正保4年の8月に四別棟に再建し享保19年の4月本殿覆を建立す、明治7年の2月郷社に列せられ大正8年境内敷地を拡張し拝殿、社務所等の附属建物を建立す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
住吉神社 当神社は今を遡る1230年の昔 第46代孝謙天皇の御代天平勝宝6年旧暦の9月13日に川向いの元住吉山に観請せしに創まる。 永禄2年6月29日425年前に現在地に遷座されました。 その後二十年過ぎて住吉神社は天正7年6月25日(1579年)に羽柴秀吉の三木別所攻めの兵火にかかり神社建物は焼失いたしました。 安土桃山時代の末期文禄3年9月13日には高和の社地に御旅所を創立し 江戸時代初期の元和5年(1619年)住吉神社の朱印領は十石と記されてあります。 正保4年(1647年)、の8月に四別棟を再建し享保19年4月本殿覆を建立し明治7年2月には兵庫県明石郡の郷社に列せられました格式の高い神社です。大正8年に境内敷地を拡張し昭和56年6月には参集殿を建設し現在に至っております。 社頭石碑 |
住吉神社 当社は、天平勝宝6年(754)9月13日、摂津国住吉大社の社家である津守連が、住吉大神と共に楯神・鉾神を住吉山に勧請したのが創始と伝う。 永禄2年(1559)6月、疫病の流行と五穀不穣が続いたため、村人が神託を聞くに、蛇淵と称された大深淵に鎮まりたいとのお告げがあったため、村人は土・石を埋めて現社地を造り移達したという。6年後の永禄8年、早魃が続いたため、社前の大岩上で雨請い祈祷をしたところ、長雨に恵まれ五穀豊穣となり、以後毎年岩上で祭祀が行われることとなった。 天正7年(1579)6月、羽柴秀吉の三木城攻めの兵火により社殿焼失するも、文禄3年(1594)に、神託により、高和村の浄地に神霊を仮奉達したが、正保4年(1647) に社殿を再建し、仮奉遷所は御旅所として毎年渡御を行なっている。 相殿に神功皇后を祀り、神功皇后の「産之磐」と称される安産岩が、河原に在し、今も遠近からの妊産婦の参詣が絶えない。 兵庫県神社庁 |
住吉神社 押部の圧(今の挿部谷町全部の十二ヶ村と平野町の常本)全体の総氏神である。祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長足姫命の四柱、孝謙天皇の天平勝宝6年(754)9月13日、摂津の国住吉神社から社家、津守連(つもりのむらじ)が楯神、鉾神と共に神霊を元住吉山に勧請したのが始まりである。その後、疫病が流行し、その上五穀が実らぬ年が続き、氏人らが御神託により、永禄2年(1559)6月29日に現在の宮地に奉遷した。天正7年(1579)6月25日羽紫秀吉の三木別所攻めの兵火に遭い、社殿を焼失したが、正法4年(1647)社殿の復興が成り、再び本殿に遷座した。 祭礼 夏祭り(7月30日) 秋祭り(10月第二土・日曜日) 社頭掲示板 |