春日神社
かすがじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】保曽呂伎神社 越前国 坂井郡鎮座

   【現社名】春日神社
   【住所】福井県あわら市細呂木22-7
       北緯36度15分44秒,東経136度14分48秒
   【祭神】天兒屋根命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】
   【由緒】往古坂上田村麿深く当杜を崇敬
       寛弘8年(1011)春日の神を勧請
       天正の頃(1573〜92)争乱に書類が残らず焼失
       大正3年1月11日神饌幣帛料供進の神社に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

『足羽社記』によれば当社は「延喜式」の保曽呂伎神社とされている。
寛弘8年(1011)春日神社を勧請して春日神社と称した。


春日神社

『足羽社記』によれば当社は「延喜式」の保曽呂伎神社で、大日本史によると祭神は従五位保曽呂枳神となっている。
社記その他の古記録では、往古坂上田村麿深く当杜を崇敬して社領三二町を寄附し、人皇66代一条天皇の御代寛弘8年(1011)亥年、当国押領使斎藤民部少輔伊傳河北に春日十社を勧請し、当社へ春日の神を奉祀された。十郷十社の一社で細呂木郷春日大明神と称した。
その後人皇77代後白河天皇保元元年(1156)当国司斎藤国貞主は伊傳の苗裔なる故を奏聞して、勅使中納言時実卿並びに興福寺総公文伊予法眼下向して奉幣あり、杜領として六町九反余を寄附、細呂木郷17ケ村の総社として社頭盛大を極めたという。
室町時代寛正4年(1463)の11月越前国河口庄細呂宜の年貢が上らないので、その代官大館兵庫頭教氏の更迭を興福寺の大乗院から中央へ出訴、一向に裁可がないため、春日祭以下の神事を停止するという事件があった。(「大乗院寺社雑事記」)。天正の頃(1573〜92)北地の争乱に書類が残らず焼失、慶長年間(1596〜1615)検地により社領も乏しくなり氏子悲歎に堪えずといえども詮方なく、以後民費をもって社殿祭祀ともに支弁し神事を営んできた。
境内に田村麿の手洗池ともいう「神乳水池」があるが、この池は文化文政の頃、諸国遍歴の義賢仙人が乳の出の少ない婦女のために祈願して一夜にして湧出したものと伝えられ、今も県内は勿論、石川県方面からも参拝する者が多く霊顕は世に広く知られている。
現在の社殿は明治22年9月に造営されたが、その社殿及び境内地は、字館の腰の南、54字上野1番地及び1番地1、2番地にある。
大正3年1月11日、神饌幣帛料供進の神社に指定された。

福井県神社庁




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