春日神社
かすがじんじゃ 所在地 社名
















   【延喜式神名帳】保曽呂伎神社 越前国 坂井郡鎮座

   【現社名】春日神社
   【住所】福井県あわら市沢57
       北緯36度14分59秒、東経136度15分45秒
   【祭神】天児屋根命
       元来、細呂枳神を祀つたものであろう

   【例祭】9月23日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】和銅7年(715)僧泰澄天児屋根命の神像を自彫して祀る
       承暦2年(1066)2月勅使中納言時貴神田寄附
       天永元年(1110)奈良春日社を勧請合祀
       天正8年(1580)兵火で焼亡
       文化元年(1804)『古今類聚越前國誌』に「保曾呂伎神社」

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「春日神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】
   【別当】高応山神宮寺

山腹に鎮座していて叢林は深い。集落からはかなり離れている。社前に「春日神社の大杉」が鳥居形状にある。
中世興福寺の庄園が隆盛となつたためにに、春日神社が勧請され、保曾呂伎神社は湮滅した。


春日神社の大杉

町指定天然記念物
この案内板の後万に見える大杉が、古来「衣かけの大杉」とよばれ、樹高15m、目通り3.9m、地上2mのところから大きな枝が四万にたれ、特に、一つの枝が長大に成長して、一大アーチを形成している。
大杉の後方に見える鳥居をくぐり、石段を上ると、春日神社があり、平安朝の昔、春日神社に仕えた社人・社僧が衣を木の枝にかけて、木の脇にある「お身すすぎの池」で、身を清めたといわれている。
春日神社はもと式内社保曽呂伎(ほそろぎ)神社で、天永元年(1110)に奈良の春日神社を合祀した。
金津町商工会

社頭掲示板



高応山の神宮寺及び神宮寺城の跡

沢の高応山は細呂宜郷の中央で、荘薗時代に山の上に春日神社の別当神宮寺が置かれ、戦国時代には頂上に神宮寺城が築かれた。今も頂上に、砦跡・横穴・城崖などが見事な形で保存され、神宮寺跡は畑となつて、泉の跡があり、山中に鐘堂跡も残つている。
上の段は與ノ院で墓地の中に、中興への憲海義海の墓があり下の段には僧房の跡がある。鍾の音は、南方の高塚、北方の吉崎、東方の宇根まで、細呂宜郷全域にひびきわたり、春日の神前では国家の昂平を祈願し、朝倉義景も祈願所としていた。
戦国時代の中頃、一向一挨や織田信長の兵火にかかり神社も寺院も焼失して、神宮寺城も廃墟となつたが、僧房の一つ常楽院が残り、江戸時代に憲海と義海によって復興された。
明治2年神仏分離令によつて、神宮寺の寺号は事実上廃止され、住職位能上は社家となつた。建物は明治6年から8年暮まで沢小学の校舎に使用された。
金津町教育委員会

社頭掲示板



春日神社

當社ノ義ハ式内保曾呂伎神社ト申傳神位不詳古昔ハ幣帛ヲ以神宝トシ勧請有之人皇43代元明天皇和銅7申午年僧泰澄神童ノ託二依リテ天児屋根命ノ神像ヲ自彫シテ此二祭ル其后人皇66代一條天皇寛弘8年(1011)當國河口荘人徳丸ノ一男御佐崎ト云フ者大和國春日社二御供米百石ヲ寄進ス人皇72代白河天皇承暦2年2月勅使中納言時貴南都興福寺泉徒伊豫法眼ヲ以テ神田ヲ當社二寄附セラル此時僧院ハ十社人四百八十庄官十四人アリ陰暦8月17日ヲ以テ祭日トシ川口荘惣社ナリ后亦當國城主朝倉家代々崇敬ス天正8庚辰年賊火二尽ク焼亡セラル一宇不残廃絶ス漸ク御像斗リ相残則小社二遷シ星霜ヲ歴ル其后里人芳志ヲ励シ神殿ヲ再建シ命ノ神像ヲ安置ス今ノ神殿是ナリ 古器石ノ狛犬一対其台ニ永正2年(1505)2月伏野菊千代丸奉献ト書印有之

神社明細帳



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