九頭竜川東岸、集落の南隅に鎮座する 当社は中世期にはすでに廃絶していたものとみられる。幕末安政四年(1857)、岡野吉孝によって、川崎の「鵜の森」に鎮座する社が、鵜屎神社であるされた。『式内社調査報告』はこの岡野説を全否定している。 |
立地 この地は明治まではその村名が示すように両川の合流する河間地域突端部に位置していた、水防上の條件も悪るく、人工的な防水堤の築構整備も最も遅れた地域である。そのため、他の木部郷各村が米を主体とする水田単作地帯であつたのに対して、川崎村は河川漁業や水上交通業を主とする集落として発達した。また、当郷の他の村落が、縄文・彌生式時代から古墳時代の土師器・須恵器まで、各期の古代遺物を出土しているのに対して、川崎村はこれまで一つの出土例も報告されていない(『木部村誌』)。これらの状況は、川崎村の形成が木部郷の他の村落、に比較して遅かつたことを物語つていて、古代に於いて有力社が奉祭されるような地点であつたとは、極めて考えにくい。 式内社調査報告 |
鵜森神社 今より約1500年の昔、勅命により三国湊口の岩山を切り通して当地方一帯の水を海へ流すことになった。男大迹王はこの至難な一大事業を達成するには先ず水神の鎮魂を図り、神々様の御守護を賜って人事を尽くさんと決意され、当時湖上に浮ぶこの森に天照大神を祭神とし 宮居をたてたのがこの神社であります。工事は18年の長きに亘りましたが 殆ど毎日参拝され真心込めて大願成就をお祈りしたと伝えられています。 男大迹王 御年58歳の時 皇位継承のため時の朝廷に迎えられて 人皇第26代継体天皇となられましたが、当時都に不足がちな鵜屎をこの森より朝廷へ献上する道を開かれたと伝えられています。献上はその後長年に亘って続けられ 次のような尊くも有り難い宣下を賜ったのであります。 「境内に樹木繁茂し 数千の鵜巣食い粛々たる宮居なり 桓武天皇の御宇延暦年中鵜屎宮の宣下あり 鎮守府将軍坂上田村麻呂社領を寄付す」 現在石の鳥居の正面にみられるあの「鵜屎宮」の石額こそ誠に貴重な宝であります なお鵜屎は古代に於いて化粧用品として大変重要な物品であり これを少しでも多く手に入れるよう神社にお祈りしたのであります 当社は 古代の名君とたたえられる継体天皇並びに鵜屎献上により古代の朝廷とかかわりあいの深い由緒あるあら高い宮居でありました。 茲に 謹んで当社のあらましを記録し 長く後世に残さんとするものであります 昭和55年(1980)3月吉日 本殿新築を記念して 社頭石碑 |
鵜森神社 祭神 伊弊冊尊、勧請年號不詳、明治8年12月12日村社二加列。 天児屋根命、勧請年月不詳、(中略)明治41年7月8日福井縣ノ許可ヲ得テ、當村社殿内合祀ス。 天照皇太神、當社勧請年月等不詳ト雖モ、往昔男大迩天皇當国ニ潜龍ノ時、村人等勅命ヲ乞ヒ當社ヲ鎭座セシコト古老ノロ碑二傳エリ。其後追々樹木繁茂シ数千ノ鵜鴉巣ヲクヒ瀟々タル宮居ト成シニ、桓武天皇ノ御宇延暦年中鵜屎神社號ノ宣旨アリテ、此社ヲ鵜ノ森鵜尿ノ神社ト称シ、(中略)近郷近村信仰ス。然ルニ天正年中織田信長三里濱ノ灌頂寺伽藍等焼討ノ節、(中略)神宝古籍等二至ルマデ皆焼失、遂二社領モ没収セラレ、其後久シク民家二安置再建ノ手段モナカリシカ、寛永年中二至リ千地丸某・井上某ノ両人村中工諭シ、元緑5年旧地工本社ヲ造営スト云。本社、ハ當大字廿九番字八筋縄鎭座ノ処、明治39年11月22日福井縣ノ許可ヲ得テ、旧地坂井郡木部村川崎字八筋縄29番地ヨリ同郡同村同大字廿七字松ノ下17番ノ甲乙18番ノ11ニ移転シ、神明神社ト称ヒテ一社ヲナシシカ、明治41年7月8日福井縣ノ許可ヲ得テ、當村社殿内工合祀ス。 神社明細帳 |