当社の御神体をめぐつて次の様な二つの全風異なつた伝承がのこつている。一つは泰澄大師が春日大明神を彫刻して祀つたのに始まると言い(『春日社由緒』)、いま一つは元明天皇の和銅年間(708−15)に太安麻呂の守本尊であつたものを奈良からこの地に遷座したと言う。 |
柴神社 柴神社略由緒 祭神 名天児屋根命 武甕槌命・斎主命・姫大神 祭神には春日四柱の大神を奉祀する。 養老元年の鎮座でもとは坂中井鯖田国富庄に所在した式内社(徒四位上柴社神)と伝える。 九頭竜川が福井平野に流れ出る頂部左岸の地で、三国々造の奥津城にあたる芝原と呼ばれる一円の鎮守社として崇拝され、天文年間に京都の占部より中務が来て初代神官となっている。神仏分離以前の別当寺については詳しく知ることが出来ないが、両百山青松寺と伝え、宝泉院・吉祥院の院号を持っている。 社地は現在の松岡町の中央に位置する丘陵にあったが、福井藩の分藩が定まり館の建設が慶安3年に行なわれた時現地に移転される。 松平藩領時は社領五十石(深見・曽万布村)、五扶持、荒子一人。春日大明社とも呼ばれ「お春日さん」と愛称される。 社殿については古くは加賀・越前一向一揆で焼失、近年は昭和23年の福井地震で倒壊したのを再建している。 明治期には別当職を廃し、七十六ケ村の郷社となっている。なお、旧社地は松岡古墳群の祭祀場であったと考察される。 御神体とまつおかの発生にまつわる二つの伝説 太安麿の尊形説 いとも尊き閻浮壇金(白金と砂金の合金)雛形、一寸三歩、天児根命の由来を尋ねれば、元正帝の養老元年南部太ノ朝臣安麿卿の御尊形なり。北ノ荘に御下向御逗留せし時、芝原の郷に比尊形を崇め給ふなり。 その後江上三ヶ村の尊形となり、然る処太安麿卿の氏の長者と御申より此所に長者の御尊形と崇め奉るなり。 室の長者伝説 奈良の長者の娘が、春日大社の導きにより、芝原郷に来て室の長者と出合う。二人は結ばれて春日社に詣でる。長者が尊び崇拝したのが春日の閻浮壇金の像で、娘が守り本尊として持参したのが、摂取院の閻浮壇金である。 だから春日社の祭礼の鼻高は長者の末裔のみが持ち、明和八年の秋、血縁者の勘七なるものが九十六歳で死亡し、長者の血脈が絶えるまでつづいた。 由緒書 |
柴神社 式内柴神社由緒 祭神 春日四柱大神 天児屋根命・武甕土命・斎主命・姫大神 養老元年江上郷鎮座と伝えられ延喜式に記載されている 芝原一円の鎮守社として崇拝され、天文年間に至り京都より占部中務が来て初代神官となる 別當を寶泉院(後吉祥院)という 社地は現在の葵丁にあったが、松平昌勝公の福井藩分藩地が松岡に定まり館第の建設にあたり慶安3年に当地に移転した 社領五十石(曽万布深見)と五人扶持、荒子一人春日神社とも呼ばれた 祭礼は江戸期には4月と9月の21日に行われ、神楽渡りと各大字より町手鉾・有志者より、御馳走手鉾が出された 社殿については一向一揆にて焼失したのを北ノ庄領主堀秀治が再興し、江戸期に入り万治三年松平昌平が新たに造営したが、昭和23年福井地震にて倒壊した 現在の本殿は昭和25年拝殿が昭和33年に再建されたものである なお旧社地は松岡古墳群の祭祀場として最適の地であったとも考察される 昭和51年1月吉日 社頭掲示板 |
柴神社 元正帝養老元年鎭座ナリ、越前國一百十六座ノ内ニシテ柴原ノ庄第一ノ総社ナルヲ以テ柴神社ト称ス、天文度始テ神職ヲ置キ第一世ヲ占部中務ト號シ、二世ヲ大貫豊後卜號シ三世ヲ松本大之進ト號ス、天正二戌年眞宗一揆ノ爲メニ社殿建物悉ク焼亡二及ヒ其後天正十九年卯ノ秋同國北ノ庄堀秀治再興アリ、其節祠官松本大之進ヲ止メ前祠官大貫豊後ノ血裔ヲ新二祠官二定メラレ大貫姓ヲ廃シテ豊島ト號ス、然シテ后慶安度旧松岡ノ城主式内柴ノ神社神殿造営アリ、然シテ社務領トシテ曾萬布深見ノ両村ニテ五十石五人扶持ヲ給與サレ、且掃除夫一人并山一ケ所神職へ地所建物等ヲ與ラル、當祠官迄十五代間累世相続維新以來右社領等ハ廃止山地宅地并祠管ノ住宅等ハ干今存在ス 神社明細帳 |
柴神社 柴神社の創立について、明治の『神社明細帳』に「元正帝 養老元年鎮座なり、越前国一百二六座の内にして柴原ノ庄、第一の総社なるを以て、柴ノ神社と称す。天文度始て神職を置き第一世を占部中務と号し、二世を大貫豊後と号し、三世を松本大之進と号す。云々」と記してあり、『春日社由緒』に「天児屋根命の由来を尋ぬれば元正帝の養老元年南部太ノ朝臣安磨卿の御尊形なり。北ノ莊に御下句御逗留せし時、芝原郷に此御尊形を崇め給ふなり。」とみえる。『越前国坂井郡東大寺領莊園ならびに口分田班給復原図』には、現在の九頭竜川右岸の坂井平野の中核に柴社・神田・柴社西里等の地籍名が記されている。式内社に比定され、平安初期上柴社と下柴社に分かれ、上流左岸丘陵に従四位上柴神が祀られ、中世より春日信仰と結びついて「春日大明神」と称し、芝原郷八ケ村の鎮守として崇敬された。 正倉院文書には「豊島連が御料田を治めた」と記されるが、社伝では天文年間(1532〜55)の占部中務の就任を以って社家の初代としている。 中世の社は、一向一揆の兵火によって焼失するが、天正19年(1591)に北ノ庄に入封された堀秀治公が再興された。江戸期に芝原の地に福井分藩松平昌勝公の入封が定まり館第が鎮座地に築かれたので萬治3年(1660)に現鎮座地に社殿を造営し遷座された。旧社地は、五・六世紀の丘陵遺跡に当り、松岡古墳群の古代祭祀場とも考えられる。 宝永元年(1704)に城下繁栄のため「お渡り」が奨励されて、毎年9月の祭礼に「御手鉾渡り」が神社と御旅所との間で実施され、城下町は多いに賑った。 江戸時代の藩政下では、宝泉院(享保九年=1724=より吉祥院と改称)・青松寺が別当支配し、神仏分離まで別当職と神職(社人)が奉仕していた。社領五十石(深見・曽万布村)五人扶持・荒子一人。明治4年2月に春日社別当職の廃止によって吉祥院は福井の不動院に合併された。 明治4年10月15日に春日神社を元の柴神社に改称すると共に郷社に列せられた。大正元年8月20日に神饌幣帛料供進の神社に指定された。昭和23年6月の福井大震災に本殿・拝殿が倒壊し、神輿・手鉾などを失った。しかし戦後の困窮の中に氏子の赤誠奉賛によって昭和25年に本殿(間口、奥行共一間)と仮拝殿(間口三間・奥行二間)を改築し、更に、同52年に、「本庁のモデル神社」の指定を受け、神域が整備された。 昭和59年に、氏子参集館が建設された。また、33年に一度の「御座祭」(みくらまつり)が斎行され折に「お渡り」神事を復活して御鳳輦の巡行が実施された。以来、毎年、「お渡り」神事が行われている。 福井県神社庁 |