往古は、枚岡神社と称し、字枚岡(現在の錦町あたり)に鎮座していた。 元和4年(1618)基町(旧薬師町)に遷座した。 『越前國官社考』に「此祭神は少彦名命にして、往古より三國湊に鎭座也。今藥師堂山ノ手にある御社是也(里俗薬師堂といふ)。こは湊城落去にぞ衰廃し玉ふなるべし」とある。現在の氷川神社を指している。 式内比古奈神社の論社でもある。 |
氷川神社 今から350年程前台町(現在台区)に遷座、1639年(万治2年)現在地に遷座した。当時は牛頭天王宮といっていたのを現在の社号に改めたという。(三国町史より) 氏子の皆さんは氷川神社のことを『天王さん』と呼ぶ。なぜ天王さんと呼ぶかについては、蔵の建て替えをする際、保管されていたものを全部出して整理をしていたところ【牛頭天王】と書かれた大小の額が四枚でてきました。 それは、漆塗りで金文字の立派な額で欅の木に彫刻されたものです。現在は拝殿の中に飾られています。 明治維新の時に氷川神社に改名し御祭神は須佐之男命としたが牛頑天王宮の名残で天王さん、天王さんと呼んで現在に至っています。 杜殿は文政3年(1820年)に建てられたもので、棟梁は八十島四郎兵衛兼房で天保年間三國神社を建てる時も棟梁であった。数十年前に拝殿の修理をした際八十島四郎平成房の棟札(墨書記名)があったと語っていました。 神杜正面の大鳥居に掲げられている「氷川神社」の額は勝海舟の書いたもので原書は掛軸となって神社に保管されていますが入手した経路は不明です。 御御輿は総重量450sで全てが三国の職人にて造られており、彫刻は志摩義時で、義時の父は有名な志摩乗時(初代竜斉)で、義時はその次男で、義時の子が二代竜斉を継いだそうです。 彫刻は勿論、金具類も精巧に出来ており三国の彫刻師、塗師、金具師の人々が造った二つとない貴重な神輿と思います。また玉矛にも義時作の銘があります。 拝殿の御拝(正面)の彫り物(木鼻共)は秋田屋宇エ門の作である。嘉永の初め頃、志摩乗時に弟子入りし嘉氷3年乗時没後は二代月志岸義時の弟子どして修行した。志摩宜時(明治27年没)の墓には秋田屋宇工門の門人名が確認できる。〔浄願寺〕 本殿の屋根の形は四方千鳥で平成6年の台風で屋根の檜皮が傷み葺き替えた時修理に携わった岐阜の専門の職人さんの話では、この四方千鳥という形は全国でも珍しく知つている限りで三ゲ所程しかないとのことです。 社頭掲示板 |
氷川神社 往古ハ當港ノ枚岡二御鎭座在マシ式内枚岡神社ト称セシヲ何レノ世ニカ藥師堂ト称シ、其地又藥師山ト云、其后元和4年戊午當今ノ台町旧上薬師町下薬師町二遷座シ、萬治2年己亥當今ノ地二遷座シ奉リ牛頭天皇宮ト称シ來リシヲ、維新ノ際神佛判然云々ノ公布二拠リ氷川神社ト改称ス。枚岡ハ本港ヨリ加賀國ヘノ通路ニテ其麓ヲ枚埜ト云ヒ、又平埜トモ云、其地ノ町名ヲ平野口町季唱へ、是現今ノ錦町ナリ明治8年12月村社加列 神社明細帳 |