延暦・大同の頃、この地一帯は荘々たる湿地芦原で、その中央の大淵には水鬼が住み、人々を寄せつけず開発が遅れていた。そのため山城上賀茂の別雷命を勧請して祈念をこらし、漸く水鬼を退治して一郷の開発をすすめたという。 2社ある紀倍神社は、一方が創建された後、いま一方が前者の分霊を祀つたものと推察される。 |
水との戦 鬼辺郷は、九頭龍川・竹田川・兵庫川に囲まれた河間地域で、常に三川の汎濫に見舞われた低湿地帯であつた。そのため早くより水防堤築造の努力が繰返えされ、一種の輪中組織が形成されていた。当地の伝えによれば、大規模な築堤事業の開始は寛弘元年(1004)まで遡るといわれ(『鬼邊由來記』外)、その後次第に堤の増幅延長が実施され、17ヶ村全体を取巻く長大な「木部堤防」が完成したのは、17世期貞享年間(1684−88)かと推定されている(『木部村誌』)。従つて、当地の歴史は父祖代々の水防排水に関する努力と紛争を中心とするのもので、創祀の説話もそうした水との戦いと密接に結び付けられている。 2社ある紀倍神社は、一方が創建された後、いま一方が前者の分霊を祀つたものであろう。 式内社調査報告 |
紀倍神社 人皇代30代桓武天皇の延暦年間の頃、この地方鬼部郷一帯は未だ湖沼地帯で就中「大沢」と言う沼の付近は雑草木等が恣に業生して昼なお暗く沼には水鬼が棲息して時々出現しては郷民を殺傷掠奪等耐えて暴行を加えるので常に恐怖のどん底にあった。 たまたま紀元1466年平城天皇の大同元年5月頃より国中は大旱魃になるに及んで水鬼は益々その凶暴性を発揮し剰へ天地海冥奔雷、飛雷と日夜災害が相ついで起こるので郷民は鳩首対策を協議した結果同年7月10日よりこの地方一帯の草原を開拓すると共に七堂伽藍を建立して山城国加茂宮より健角身命、玉依姫命、別雷神の三柱の分霊を拝載して祀り郷名「キベ」に因みて紀部神社を創建し、同年9月19日を期して水鬼退治の成功を神前に祈願して神助を仰ぐ一方応援に来着せる叡山七坊の僧兵らの加勢によってさしもの水鬼も今は抗するを得なくなり同年10月18日遂にその首級を討ち取ることができたのである郷民の喜びは言語に絶し此の上はこの鬼体を境内に埋めてそこに桧葉を植えてこの遺業を永く後世へ伝えたのがそもそも「オニヒバ」の由来である。 以来この日を「鬼倍の命取り祭」としてその名が高い、この「オニヒバ」は天正5年織田信長の異神仏焼払の災いに遭い樹齢七百余年にして伽藍と共に烏有に帰したので当時この遺跡を更に後世に伝えるため二代目桧葉を植え今に及んでいる樹齢450余年と称された樹高7丈7尺(23.3m)周囲一丈二尺(3.7m)の記念木である。 昭和39年7月福井県はこの「オニヒバ」を巡る由来と樹齢等に鑑み天然記念物に指定してその保存と管理を期することにしたのである。 紀元2628年6月建之 社頭掲示板 |