井口神社は春日神社の相殿に祀られているが、境内にも石祠が鎮座している。 明治維新になつてから、式内社調査があつたのに際して、氏子一同協議の上、井口神社の旧蹟へ神殿(石祠)を造営した。 人皇継体天皇がまだ男大迩の命(亦の御名は彦太命)と称されていた時、水理の不便なのを憂い、河口を浚ったた時、一つの岡を発見され、その岡に行宮を造営したのが創祀。 「井口」という社名は、古墳時代〜古代律令期と推定される開拓の初期に、後背湿地に開かれた水田に灌概用水を供給するための取水路が、この附近で竹田川南岸の自然堤防を切つて開繋され、その取水口の守護神として創建されたものとも考えられよう。 |
由緒之碑 総社 郷社 春日神社 相殿 式内 井口神社 相殿 式内 井口神社由緒 祭神 男大迩命 人皇27代継体天皇は御即位前、男大迩命と称してあられた。其の頃、当国坂中井、高向、三国及び所々に御在住しておられた。国中の水利の不便を憂い給い、当国三大河の九頭竜川・日野川・足羽川及び坂井港を開かれ国中の治水を行われた。其の時一ノ岡に行宮を構えることになり、この地を名付けて河口之荘本荘と呼ばれた。そして継体天皇崩御の後、この地に社殿を造営し祭神として勧請し郷中一統の総社として崇敬し奉り延喜帝の時、式内に列せられた。 総社 郷社 春日神社由緒 祭神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比当ス 人皇16代一条天皇の御宇、鎮守府将軍藤原利仁四代の苗衛、当国押領使従五位上斉藤民部少輔伊博の勧請に係れり社記に曰く伊博其の先祖春日明神に信仰厚く曽て当荘の住人徳丸の男美佐崎なる者を使いと神供百石料を以て南都の春日神社に献じ本国に其の分霊を勧請せんと欲す。寛弘8辛亥年2月、今より889年前、上奏し神殿を設け同10月朝命を以て遷営あり其の供奉として別当には南都の惣大連公文伊予守藤原国等々社家480人神輿陪従して来たれり其の時荘官24家を置き社領600町を寄附せられたり、後、伊予守国等往時、継体天皇三大河を開き耕地と成し給えども我が神領の地未だ水田に非ず依って国等水利を得んと欲し春日明神に祈願すること二七日 奇なるかな満願の日薄暮のこの神庭に白き鹿来たりて一夜林の下に止まれり其の夜国等知らず神容甚だ威厳にして告げて曰く 今汝撫民の志を以て祈誓する処あり朕之を示さん。九頭竜川の上流に行きて尋ねべし必ず水の得るの奇験あらん自ら悟るべしと、夢たちまち醒めたれば拝謝してすでに階を降りる。白鹿北東に向かって立ち去れり国等即日数里の川上に到るところ一つは八尺の幣を咥え一つは六尺の榑を咥え此に於いて神感の論示する所なるを覚り白鹿の到るところに従い行き水源に到れば白鹿は水中赤色の岩上に起立し茲に鳴くこと三声依って其の地を鳴鹿山鹿と云う白鹿また乾の方向を指して行く国等これに従うこと数里白鹿左右に伏す今其の地を鹿伏と云うこの所にて用水左右に分かる。また行くこと二里余り白鹿二物を捨てて消え失せり、今本荘村藤沢の地内鹿塚という小塚あり。故に国等直ちに家に帰りこの顛末を社家及び郡民に謀りて白鹿の通りし跡に就いて幣を標となし河川を開き水を通して田を拓きたれば居民日を追って繁栄せり今に至る迄この用水の恩恵に浴す。本荘春日社は十郷の総社にして十社あり、本荘郷、新ク郷、大味郷、溝江郷、細呂木郷、兵庫郷、大己郷、関郷、新荘郷あり、大守古へより所々に春日明神を祀たる所以なり信長豊臣氏の時も国等の開拓の旧功に拠って社司大連に用水の役儀勤務を命ぜられ黒印を賜い其の他領主代々判物等を賜わり今尚大連家に所蔵せり本社の郷社に列せられ明治6年1月なり以上国等の子孫 大連氏の家譜及び社記に拠って明治32年4月 下番 藤野市九郎誌す 社頭掲示板 |
本荘春日神社本殿一棟 春日神社の本殿は、今から約300年前に、中番、下番、上番の氏子らによって建立された。三間社流造、柿葺の建築で、向拝柱と正面の柱に少し改造は見られるが、創建当時の状態をよくとどめている。 芦原町における最古の建築の一つで、同じ形式の本殿としては、国指定重要文化財の須波疑神社本殿(池田町)・滝谷寺鎮守堂(三国町)・鳥井春日神社本殿(鯖江市)とともに福井県内でも古い例である。 上棟札によれば、伊井村(現在の金津町伊井)の大工の杉原加右衛門らがつくり、金津の桧皮屋と福井の木挽らも関わっていた。造営費の一部は、富札でまかなわれた。このような例はこれまでに県内では知られていない。なお、本殿内の阿弥陀如来像と薬師如来像は芦原町指定文化財である。 社頭掲示板 |
河口荘と十郷用水 広大な荘域をもつ河口荘十郷が中世を通じて一つの荘園としてまとまりを保ったのは、平安末期からこの地域の開発を可能にしてきた九頭竜川から取水する十郷用水(鳴鹿用水)に結びつけられていたことによるといえよう。十郷の各郷内の春日社は、いずれも用水が分岐する地点に勧請され、そのうち十郷十社の筆頭であった本庄郷の春日社は「井口神社」とも称された。その神官である大連氏は南都から越前に入った社家の子孫と伝え、中世においては用水を管理し在地の中心的立場にあったと推定され、近世でも井奉行と本庄郷春日社神官を務めている。戦国期には朝倉氏もこの水利権を重視して、天文6年(1537)6月28日付の朝倉氏一乗谷奉行人連署定書では鳴鹿大堰の普請、筒木や樋の規格、井料米などの規定が示されており(資4 大連三郎左衛門家文書一号)、用水の維持・管理に努めた(三章五節四参照)。また十郷用水をめぐる係争は朝倉氏によって裁かれていた(『雑事記』明応8年7月24日条)。 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-04-04.htm |
井口神社 井口神社は、春日神社がこの地に分神される以前に、古社で延喜式迹命と称されていたとき、坂中井、高向、三国などに潜在しておられたが、水理の不便なのを憂いたまい、一つの丘に行宮を造営されました。 人々はその恩沢を感動し、一社を建立し、継体天皇を祀り、郷中一統のお惣社としました。 現在は拝殿前方東側にあり、春日神社摂社として祀られています。 しゃく谷石製の石祠で一間社流造の形式を持っています。近年修理された石製の台座の上に鎮座しています。柱・壁・屋根などはすべてしゃく谷石で造られ、垂木は屋根と一体に一石で造り出しになっています。 かなりの風触がありますが、北側の壁面に「享保七壬寅年十一月甘一日破損再興」との刻銘が見られ、享保7年(1722)11月21日に再興されたものです。 明治6年1月に郷社に列せられ、大正元年8月26日に神饌幣料供進の神社に指定されました。 あわら市HP |