久米多神社
くめたじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】久米多神社 越前国 坂井郡鎮座

   【現社名】久米多神社
   【住所】福井県坂井市丸岡町下久米田 1-1
       北緯36度6分55秒、東経136度18分33秒
   【祭神】大伴金村大連
       『特選神名牒』大久米命

   【例祭】10月3日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治9年6月10日村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】古墳
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿・社務所

   【境内社】

九頭龍川扇状地の北東端を限る山地の支稜先端部、通称「陵山」と呼ばれる尾根筋の中腹に立地し、境内からは、木の間こしに九頭龍川扇状地一帯を望むことができる景勝の地であり、扇状地開拓の拠点にふさわしい地である。
『越前国官社考』に「里俗この陵山といふは大久米ノ命を葬祀せし山にして、上代より御社はなく、ただ一山を祀り、麓に拝所ありしといふ。」とある。


久米多神社

男大迹王は、振媛の養育のもとにこの地で成人され、高向郷の豪家から娘を娶り妃とした。男大迹王は、やがて都に上り帝位についたが、妃はこの地にとどまりみ子を生んだ。王は、大伴金村を使わして妃を迎えようとした。しかし、妃は産後のひだちが悪く、亡くなられた後であった。そこで、妃とお子をこの地に葬り、2回もこの地に使いした大伴金村を祀って久米田神社としたという。

http://www.fukui-moc.go.jp/siryou/hen1/syou5/7minwa4.html



久米多神社

式内久米田神社の由緒
鎮座地 福井県坂井郡丸岡町下久米田1号1番地
御祭神 大伴金村大連
例祭 春 4月3日 秋 10月3日
旧社格 指定村社
 当社は、延宝5年(西暦927年)に完成した延喜式の神名帳に記載されている式内社で、久米多神社と尊称されていました。  御祭神の大伴金村大連は、皇嗣(あとつぎ)のおられなかった第25代武烈天皇が崩御の後、高向の里(現在の丸岡町)に住まわれていた男大迹王を擁立され、その王を第26代天皇(継体天皇 御在位西暦507年〜531年)に即位させた豪族として知られています。
 当社は、天皇御即位の後、再び高向の里を訪ねられた継体天皇が大伴金村大連の子のお働きに深く感謝され建立されたと伝えられています。
 この由緒について、明治の神社明細帳には、次のように記載されています。 「旧記之レナシ故ニ由緒不詳。然レドモ古老ノ伝フル処ニ曰ク武烈天皇後嗣ナカリシニヨリ大伴金村大連議シテ曰ク、越前国坂井郡高向郷ニ應神天皇(第15代天皇)五世ノ孫、男大迹尊御座シマスアリ。性慈仁孝順(生まれつき情け深く親に孝行を尽くしその意に従順である)、天緒(あまつひつぎ)ヲ承ルヘシト。遂ニ迎エラレテ帝位(天皇の位)ニ即カセ給フ。後、越前国洪水ニテ居民安セス(九頭龍川の洪水のために高向郷の人々は安心して生活できなかった)天皇深ク憂ヒ給ヒテ之ヲ治メ給フ。此ノ時再ヒ高向ニ御滞留在リ。深ク御趣意アリテ、此社ヲ建立シ給フト云フ。 明治9年6月10日村社ニ被列。」
 また、御祭神や氏子の敬神の姿を鳴鹿村誌は、「大伴金村は六代50年にわたって朝廷に仕え、大連(西暦5、6世紀のころ大伴、物部両氏から出て、大臣と並んで朝廷の要職)となり、その間四十二年に及んだ。社前を通る者古来、鳥居の前では下乗し、汚物は神前を避けて通った。」と記しています。
 当社は、陵山と呼ばれた六呂瀬山の尾根筋中腹に立地し、境内からは、木の間ごしに九頭龍川扇状地一帯を望むことが出来る景勝の地であり、扇状地開拓の拠点であったことが伺われます。

社頭石碑



久米多神社

旧記之レナシ故二由緒不詳。然レドモ古老ノ傳フル処二曰ク、武烈天皇継嗣ナカリシニヨリ、大伴金村大連議シテ曰ク、越前國坂井郡高向郷二応神天皇五世ノ孫男大迩尊御座マシマスアリ。性慈仁孝順天緒ヲ承ルベシト途二迎ヘラレテ帝位二即カセ給フ。後、越前國洪水ニテ居民安セス。天皇深ク憂ヒ給ヒテ之ヲ治メ給フ。此ノ時再ヒ高向二御滞留在リ深ク御趣意アリテ、此社ヲ建立シ給フト云フ。明治9年6月10日村社へ被列

神社明細帳



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