多祢神社の御神体は稻穂を担いだ木像である。 境内に『瑩山國師降誕地』の碑がある。 |
多祢神社 多禰神社は延喜式内社で稲倉魂命を奉斎し古くより種稲荷明神、従一位多禰大明神と尊崇され、五穀豊穣、商売繁昌と国家鎮護、子授、安産を守護し給う。 例祭日10月5日 社頭掲示板 |
常済大師誕生地 指 定 町指定 史跡記 指定年月日 昭和49年1月8日 所 在 地 丸岡町山崎三ケ 式内多禰神社の境内に「瑩山国師誕生地」の石碑がある。瑩山国師は、文永5年(1268)種村観音堂に生まれる。曹洞宗では、道元は高祖、瑩山は太祖と仰がれ 能登総持寺本山の開祖となる。明治30年村人が図ってこの地に瑩山国師降誕地の碑を建立した。 社頭掲示板 |
常済大師誕生地 【史跡】 所在地 丸岡町山崎三ヶ 管理者 山崎三ヶ区長 指定年月日 昭和49年1月8日 瑩山紹瑾は、文永5(1268)年10月8日に越前多禰村の観音堂に生まれたと『和漢三才図会』に記されている。 紹瑾は、幼くして神童と呼ばれ、13歳で永平寺2世弧雲懐奘のもとで得度し仏門に入り、同3世徹通義介につき修業をつんだ。その後、義介とともに加賀を回り、大乗寺第2世となった。その後、能登総持寺を開き、曹洞宗を広めた。曹洞宗では開祖道元と高祖、瑩山を太祖とあがめている。明治35年(1902)4月、この山崎三ヶの地に『瑩山國師降誕地』の碑を建てたが、昭和62年に改修し、現在の多禰神社境内に移した。なお、瑩山は明治42年皇室から常済大師、弘徳円明国師などの称号を贈られている。 http://www.town.maruoka.fukui.jp/bunkazai/mati_bunka10.html |
多祢神社 由緒沿革『延喜式神名帳』に記載の「多禰神社」は当社であると言われている。 御社名について『神社明細帳』に「阪井郡山崎三ケ村字馬場 無格社 種神社」を朱筆で「明治41年8月15日に改称許可 多禰神社」と訂正されている。 このことを『式内社調査報告』は「多禰」を「種」の一字で記載する例は、近世の地誌類に多く散見し、村名が、種村と呼ばれていた頃は、神社も種神社と呼ばれていたのを、古典に據って、明治41年に「多禰神社」と改称するようになったのであろう。と述べている。 御祭神について、『神社覈録』に「今、稲荷明神と称す。」『大日本史』に「今、種山崎村に在り、稲荷明神と称す。国税帳に云う、従一位。」『神社明細帳』に「祭神 稲倉魂命天兒屋根命(朱筆)。」と記してある。 朱筆の天兒屋根命は、大正10年に、山崎区と江添区の春日神社を合祀した記録である。 明治9年6月に村社に列せられた。 昭和14年4月1日に福井県より神饌幣帛料を供進する神社に指定された。 境内は、奥深く、もの静かな社叢に囲まれている。 なお、昭和49年1月8日に丸岡町から史跡の指定を受けた「瑩山国師降誕地」の石碑は、明治30年に境内に建立されたものである。 瑩山国師は、文永5年(1268)に越前国多禰村の観音堂に生まれ、後に、能登国の総持寺の開祖となられ常済大師と申された高僧を顕彰した石碑である。 福井県神社庁 |