八雲神社
やくもじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】布久漏神社 越前国 坂井郡鎮座

   【現社名】八雲神社
   【住所】福井県あわら市北潟46-30
       北緯36度15分59秒、東経136度12分55秒
   【祭神】速須佐之雄尊 (合祀)罔象女命
   【例祭】7月 第4土曜日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・手水舎

   【境内社】

古来から北潟集落の鎮守として信仰されてきた
この地区には風力発電の風車が多く設置されている。
『越前国官社考』に「北潟浦と濱住浦との中間に布久呂社があるが、それは北潟浦の産神として天王社となつている」と記載してある。この天王社は牛頭天王を祀つていたが、神佛分離によつて奥院は八雲神社となつて現在に至つている。


八雲神社

八雲神社 由緒
当八雲神社の祭人は速須佐之男尊にて、ほかに罔象女神、安徳天皇が合祀されている。速須佐之男尊は天照大神の弟神にして八岐の大蛇を退治その尾から天叢雲剣(草薙剣)を得て天照大神に献上、のちに歴代天皇皇位継承の三種の神器となる。また、速須佐之男尊は牛頭天王と習合し汚れを祓う神として祇園信仰の中核を担い、全国九千余社に及ぶ日本固有の神信仰の中心的役割を果たすとともに、広く崇敬されで来た。
牛頭天王は仁慈の神として庶民の信仰を集めたほか「武運長久」の守護神としても覇者武者の信仰を集めてきた。
平清盛もまた、「戦」の守神とし、安徳天皇の護神として信仰、(巌島神社には、平家の氏神・市杵島姫命が祀られている。)と記されている。 (安楽寺の記述=北方の安楽寺というに平清盛、信仰し給ひしと言える牛頭天社あり、これも此所にはいかなる故にやとおほゆ。`また、平清盛、即当国の押領使藤原左衛門実澄に命じて、当社を造営、神領を寄附す云々。天王社に平清盛入道・重盛信仰在世之間社領二百石ばかり寄附有之由平氏亡て廃すとある。また、氏神と安楽寺ほ古くから深い繋があり祭礼は安楽寺を中心に斎行され、氏神は安楽寺で一泊、氏子達と一夜を過ごされる。また、神渡りの御神輿は安楽寺本殿内に保管されている。)
平家滅亡後(1185〜)北力浦に夜々光を見る。時の院主書不思議の懐ひをなし村人達と出見るに、海に浮かぶ御座船あり、牛頭天王本地垂迹・諸眷属と共に後山に勧請す。(御神体を担ぎ崖をよじ登りし村人を「がけ」・担ぎあげし村人を「かつき」と、それぞれ姓を授かる。)また、御衣を洗わんとて水を求むるに、忽清水涌出せり今に此の池を干岡の池という。諸眷属衆は集落の人々を「北方の衆」と呼び、北方の衆は諸眷属衆を「旅の衆」と呼び合い同じ信仰のもと合す。
後山 経塚山(86.9m)に奉られし速須佐之男尊は、天王さま・天王さんと称し深く信仰されてきた。天王さまに、秘合祀された安徳天皇は時とともに広まり、当地通行の人々は勿論・馬上の人は下馬し・海上の船は帆を下げ拝礼し通行、広く知れ渡ることを恐れた村人達は、現地所天王山(51.9m)に御移ししたと伝えられている。
速須佐之男神社の多くは明治まで「天王さま・天王さん・牛頭天王社」など呼ばれ親しまれていたが、慶応4年(1868)3月28日発布の太政官達「神仏分離の令」以降、牛頭天王の社号は禁止され「八雲・祇園・八坂・進雄・素盞鳴」など、それぞれ改称、当地天王さまも八雲神社と改称された。(幾度か行われた現本殿の改築記録のうち、「慶応元乙丑歳九月吉神日造営」の棟札記録一枚のみ発見されている。)
戦時中重傷負い水欲す兵の夢枕に、杖を持つ老翁現れ一突するに、神水湧出で飲み干す。兵尋ぬるに我は北天の守護神牛頭天王なり、遠く北方の地八雲神社に在り、汝を救はんとて此所に来るなり、と仰せ給い姿消ゆ。負傷癒えし兵このこと伝えるに及び、八雲神社に水を供え武運長久を祈る参拝者後を絶たず。今日なお御礼詣での人々有り。
また、鞘堂内の本殿前に置かれでいる一対の木製狛犬は、鎌倉室町時代中世の作(鯖江市指定ののも)に姿形が類似しており県内では相当古い珀犬と記述されている。
当社に祀る神々は、古来から北潟集落の鎮守として、信仰の中心として、先人達が守り伝えてきた尊い神々である。今後も集落の氏神としてお守りし、永く伝承されることを祈念する。
平成15年11月吉日
八雲神社管理運営委員会

社頭掲示板



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