布久漏神社
ふくもりじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】布久漏神社 越前国 坂井郡鎮座

   【現社名】布久漏神社
   【住所】福井県坂井市丸岡町北横地 14-30
       北緯36度7分42秒、東経136度15分8秒
   【祭神】誉田別命 (配祀)息長帶姫命
   【例祭】9月14日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「布久漏地堂」「横地村八幡社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

継体天皇の第19番目の御子円媛が応神天皇と神功皇后をまつつたお宮。
円媛命は布久漏の地にあって、この地一帯の水利が悪く、五穀の稔がままならぬことを憂いた。そんなある日、東南の山奥から一頭の鹿が里に下りてきて、一声大きく鳴いた。と思うと、布久漏の地に来てしばらく憩い、餌をあさったあと、本荘方面に向かって駆けていき、忽然と姿を消した。その鹿の鳴いた場所が、現在の『鳴鹿』の地名の起こりであり、鹿の通過した跡を調べて、掘って用水路にしたのが現在の『十郷用水』の起源だとされている。
元は北潟と浜坂の間に布久漏神社があつたが一向一揆の動乱に際して吉崎に近かつた爲に廃社となつたと伝。


布久漏神社

布久漏神社由緒
御祭神 應神天皇(誉田別命)
神功皇后(息長帯姫命)
御例祭 9月14日
当社は、應神天皇 神功皇后の二柱の大神を御祭神としてお祀りしています。御創建の年代は詳らかではありませんが、醍醐天皇延長5年 (西暦927年)に編纂された延喜式の神名帳に登載する延喜式内社であることから、それより以前に御創建されたことがわかります。
社伝によれば、人皇第26代継体天皇が男大迹皇子として越の国坂中井にお住まいの頃、この辺り一面は泥沼で耕地は大変少なかったといいます。皇子は郷土心が強くいつもこのことを憂いておられました。
ある時、九頭竜川の水口を切り開いたところ、水が海に流れるようになり次第に耕地が出来上がりました。
皇子が継体天皇となられた後、この布久漏郷に第19番目の皇女円媛命がお住みになり、この治水事業を承け継がれ現在の十郷用水の礎を造られたのです。円媛命は、御自身が應神天皇第六世の皇孫に当たることから、應神天皇 神功皇后を氏神として祀り、土地の名を取って布久漏神社としたのが御創建であると伝えています。
特殊神事 表児の米
福井県指定無形民俗文化財
昭和37年5月15日指定

社頭掲示板



表児の米

布久漏は北横地の古名である。神社には、品陀和気尊(応神天皇)と気長足姫尊(神功皇后)をまつる。
 この神事の起源については、継体天皇の皇女円弥媛の用水に対する尽力に感謝し、賽米を集めた事に始まる等、いくつかの伝説がある。
 9月14日の宵、村の若者十数名が褌姿で公民館に集まり、太鼓のはやしに合わせ歌いながら肩を組み輪になって押し合いをする。
この行事を『おたしより』という。続いて米搗きが始まる。初穂米を臼に入れ、『今搗くお米は、百姓の涙米…』などの歌にあわせて搗き上げとぎ、「セイロ」で蒸し神前に供える。残りは団子状に丸め(これを表児の米という)参詣の人に箕でまく。
 15日未明、若者たちは表児の米を箕に入れ、『マスヤ、マスヤ』と呼びながら村中を廻る。各家では一升ますを持出しこれを受ける。

社頭掲示板



布久漏神社

継体天皇、當國御潜在ノ後皇子二十一柱ノ中第十九ノ皇女國媛命當村二在シ 当地ハ和名抄二云フ坂井郡布久留ノ郷ナリ 其応神天皇六世ノ皇孫ナルヲ以テ応神天皇及ヒ神功皇后ノニ柱ヲ鎭メ一社ヲ建立シ土地ノ名ヲ取リ布久漏神社ト称ヘラル當時當村大崎四郎右エ門ノ福先某能ク皇女二奉仕シ拝戴物井由緒記等アリテ同家二傳來セシカ嘗嗣テ祖〜融ノ災二罹リ皇州有二艇即シムフハ唯口碑二残レルノミ而ノ皇女ハ當村二亮去シ玉ヒ近傍所属地二葬リタリシト古老ノ傳アレ匡今其所ヲ詳ニスル「能ハス或ハ日フ皇女亮御ノ日ハ欽明天皇即位十五年八月十四日ナル.力故ニホ來毎年其日ヲ以テ當神社ノ祭日トセリト而シテ又該神社ヲ俗二横地村布久漏地堂横地村八幡肚ト称ス毎年八月十四日祭日ニハ表見米ト云フ神事ノ故例アリ其事古今類聚越前國誌及ヒ足羽社記越前國神社誌等ノ書二載テ明確ナリ蓋此表見米ノ神事ハ村内各戸新穀ヲ醸集シ社前二於テ春之炊之蒸之握之以餅トナシ神前二奉供ス而ノ其轟余ハ箕投シ詣集人ヲシテ之ヲ孚拾セシメ以テ虫除ノ神符トス此神事自古至今間漸ナク傳フト錐其原因スル所得テ之ヲ詳ニスル能ハス按スルニ表兇米ハ表志米ノ轄語ナルヘシ何者此神ノ冥護二依リ満作ノ豊熟ヲ得喜.テ以テ其志ヲ表スレハナリ

神社明細帳



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