荒島神社
あらしまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】荒島神社 越前国 大野郡鎮座

   【現社名】荒島神社
   【住所】福井県大野市佐開 11-55
       北緯35度56分29秒、東経136度33分20秒
   【祭神】物部大連 天津児屋根命
   【例祭】9月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平7年(735)行基菩薩創祀
       建久(1190年代)のころ常陸坊海尊飛行自在来山
       文明13年(1481)春雪なだれ落ちきて社殿流失
       それより雪を恐れて元の宮地を去ること半丁ばかり下に遷
       明治元年8月現在地に遷
       明治9年村社

   【関係氏族】物部氏
   【鎮座地】旧鎭座地は荒島岳(1524m)の四合目
        文明13年(1481)春雪なだれ落ちきて社殿流失
        元の宮地を去ること半丁ばかり下に遷
        明治元年8月現在地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「荒島山大権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神庫

   【境内社】天満宮・白山神社・村上神社・神明神社・八幡神社

旧鎭座地は荒島岳(東4.5Km 1524m)の四合目に鎮座していた。
物部の荒山の連公勲功があり、この山を領有した。公没してのち、里人あがめて大権現と祀る。
現在地はもと春日神社で、この境内に荒島神社が山から下りて合祀となつた。
拝殿向かって左に「嵐島宮」の額を掲げる堂あり、荒島神社の札が掛かっている。本殿には「春日宮」の額がかかっている。


荒島神社

前國大野郡神明神社の第一座荒島山大権現はいにしへ物部の荒山の連公勲功ありしによりこの山をたまはり領したまへり。公没したまふてのち、里人あがめまつりて大権現とあふぎたてまつりぬ。さて、山の名をあら山といひまたあらしやまともいへり。人皇45代聖武天皇の御年天平7年(735)行基菩薩師の行者、浄光の行者とともに飯降山において佛像二百七十余体つくりたまひしとなり。中に正観世音菩薩丈六の尊像をもつて當山大権現とさだめ、行基菩薩この山へわけのぼり安置したまへるなり。今に8月(注、現在は12月となつてゐる)某の日連綿としてたへず祭りをおこなひたてまつる。しかれば當山荒島大権現と申したてまつる。垂迹して物部の連公本地して正観世音菩薩なり。また、建久(1190年代)のころ常陸坊海尊仙術を學び得て飛行自在し、きたりてこの山に足をとどむといひ傳ふ。あるとき木のはごろもを着したる松のうち割りたるあかし三本を以て樵夫に告げていはく、「われこの山に住むことおよそ三百年なり。この荒島山の谷永尾といふところへひとりの行者観世音の尊体を安置せむと、わけのぼりたまふあひだ、ここに宮居をいとなみ信仰いたさばもろもろのかん難をまぬかれ、家内安全子孫長久なることうたがひなし。これ みな本地観世音にして誓願ありとの方便なり。そのしるしには『この松かならず芽を出すべし。』とし植ゑさせけるより年々に榮へて人形の松となづけることあまねく世の人の知れるところなり。その後文明13年(1481)の春のころより雪なだれ落ちきて七間四方の堂谷底へ推落せり。氏子みなはせあつまりてこれをなげくにまつ尊像をたつねむかふれどもかすみもうろうとして行方知らさせたまはず、人々心の中に所念したまふ。、日を経てはるか向かふに光明かくかくたるところあり。まことかし。ここにいますことうたがひなしとよろこびいさんで馳せいたれば、ただみくし(首のこと)のみ岩のはざまにのこらせたまふ。その末社の神々もみくしの四方に止まらせたまふこそまことのふしぎの御事なりき。それより雪を恐れて元の宮地を去ること半丁ばかり下がり社を建て、みくしたあはせて末社の神々を鎭座し奉り、いまここに天保6年(1835)にいたつて一千百四年におよびぬ云々

荒島山旧宮縁起



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