当社が式内分神社であることに異説はない。 旧地は、現在地の西200mの水田の中にあり、僅かにこんもりとなつており、榎木が一本日蔭を作っている。 「式内社調査報告」は当社が式内分神社であり、上記の「旧地」も分神社のものとしているが、現地にある市の掲示板には式内分神社は大森神社とし上記の旧地も大森神社のものとしている。 |
分神社 大森神社と同じく祭神に伊波知和希命(いはちわけみこと)を祭り、このf和希(わけ)」が「脇」三ヶという地名の由来と考えられます。 天正元年(1573)織田氏の兵火にかかり当時の社伝及び神宝・神器は焼失しましたが、その後東郷城主、長谷川秀一の崇敬を受け再建されました。 社頭掲示板 |
分神社 継体天皇越前國御在住ノ砌伯父伊波知和希命ノ御霊ヲ祭祀在シ神社ニシテ則延喜式二云フ分神社ナリ 往古坂上敏定ナル神官在テ社務タリシモ元亀年中織田氏兵火ノ當時社傳旧記及神宝神器等灰儘シ 加之社家退転シ子孫モ詳ナラサリシニ天正年間牧山城主長谷川秀一崇敬社殿ヲ再建在テ 七ケ村字上毘沙門安原小路南山杣中脇河原脇ノ惣社トシテ年々祭祀嚴重ナリシモ明和二年乙酉三月八日位置ヲ山田則チ現今ノ社地二遷座ス 旧地ハ西二去ルニ丁余ノ田地中二鳥居ノ石残レリ 神社明細帳 |