白山社
はくさんしゃ 神明神社境内摂社 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】山方神社 越前国 足羽郡鎮座

   【現社名】白山社【神明神社境内摂社】
   【住所】福井県福井市宝永4-8-1
       北緯36度3分58秒,東経136度13分10秒
   【祭神】
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 神明神社
   【社殿】
       

   【境内社】

神明神社境内摂社白山社を山方神社に比定する説がある。
2017年4月に神明神社に伺ったところ下記のような回答を得た。
「現状を申しますと、白山社は境内に存在しません。確かに戦前の資料を見ますと、複数の資料に白山社の記載があり、地主の神であるとか、山方神社に比定されるなどの記載がみられます。
“山方神社”は、付近鎮座する足羽神社の由緒によれば、同社に合祀されているとのことですが、嘗て当社の境内社であった白山社との関連は不明です。
当社の社殿群は、戦時中空襲によって焼失しておりますが、焼失前の配置図(覚書程度の簡単なもの)を見ても、その存在が明らかではございませんので、戦前にはすでに境内から姿を消していたようです。 」


神明神社

御鎮座の由来
社伝によれば、遠く越前国北庄三郷(現在の福井市中心部)は足羽御厨(あすわのみくりや)と呼ばれ、伊勢神宮に御戸帳(みとばり)を献上する神領でありました。
第六十代醍醐天皇の御代、北庄に明光長者という人があり、厚く天照大御神を崇敬し、御神徳を頂くことも少なくなかったため、当地に社殿を造営し、皇大神宮を勧請したい旨を朝廷に奏聞に及んだところ、天皇深く叡感なされて直ちに、「国家鎮護のために大神宮を勧請せしむべし」との勅命を下されました。かくして延長2年(924年)3月9日、右大弁藤原親正、神使久志本右衛門大夫広次等が、御分霊・神宝・幣帛等を奉戴して北庄に参着、暫く足羽神社御宝殿に御滞座の後、同年9月20日、御社殿の竣功をまって御鎮座になられました。
以来御祭神にきわめて由緒の深い3月9日、9月20日は春秋の大祭日として明治の改暦に至るまで連綿と受け継がれました。
歴代国主の崇敬
足羽御厨とも呼ばれた北庄には鎌倉時代には越前守護所が置かれていたとも云われ、越前における政治上の重要地点でありました。したがって北庄総鎮護として御鎮座相成った当社には平重盛公を始め、源頼朝、執権北条氏、新田氏、斯波氏、朝倉氏、柴田勝家、丹波長秀、堀氏、青木秀以、松平氏等歴代国主の崇敬厚く、社領寄進、社殿造営、社参奉幣の事など枚挙にいとまがありません。
斯波氏の重臣から越前守護になった朝倉氏は北庄を根拠地として政治的地位を高めましたが、初代広景は敬神の念厚く貞和3年(1347年)領内の諸社に先駆けて当社の規模を修復、六代家景は文安3年(1446年)に再興し、初代越前守護となった考景もまた深く当社を崇敬して国の安泰と民心の安定を祈願しており、一乗谷に移ってからも朝倉氏の守護神として尊崇され、代々参詣を怠らなかったと伝わります。
福井藩祖結城秀康公は入封後の慶長8年(1603年)神領二〇石を寄進し、二代忠直公も元和5年(1619年)に社領八〇石を加増、以来歴代藩主も就封後の社参奉幣・叙位任官の際の奉告は怠らず、社殿修復、判物を与え、国元で出産の時には安産祈願をし、誕生後には健やかな成長を祈り初宮詣を行い、当社を氏神として崇敬していました。社領百石は元和6年(1620年)には幕府によって安堵され、以来越前では平泉寺白山社と共に歴代将軍家によって安堵される御朱印地とされていました。
福井(北庄)と神明神社
北庄は柴田勝家公が入部して城を築き、城下町として一層市街地が進んだことにより、名実ともに越前における政治・経済の中心地となりました。勝家公は築城にあたり当社境内に70〜80人の侍の屋敷割を行ったとの記録もあります。
慶長2年に入国した結城秀康公は北庄城を拡張するため、当社の門前町であった神明町を城北に移転させましたが、神域は動かさず城郭内に残しました。第三代藩主忠昌公は北庄の「北」は敗北に通じ不吉であるということで、福居(福井)と改称しました。以来当社は「福井惣社」(越前国名蹟考)と称されるようになりました。
寛延2年(1749年)の屋根葺替後の御遷座の時には「町内にも簾を下げ、提灯を出す。尤も祭の如き参詣あり。色々見せ物もこれ有り。賑々しき事」(国事記)と記され、また「当御代より夏祭り執り行う。(中略)…由縁は国主(十四代斉承公)春三月江戸詰、五月に御帰国相成る。故に秋祭一度ばかり御在国に付き、夏祭始まる。国主は当国にて御生出に付き、当社は氏神なり」(社記)と見えるように、藩主をはじめ城下の人々が身分の上下を問わず、心から当社を崇敬し、その祭礼を待ち望んでいた様子がうかがえます。この伝統は維新後も引き継がれ、五月の祭礼は「神明祭り」と呼ばれて親しまれ、明治18年からは大名行列も加わって、福井市民の心意気を示す祭として盛大に行われています。

公式HP




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