式内社調査報告には「志比堺には、延宝8年(1680)創建と傳へる白山神社があり、明治の中葉に至つて八幡神社と改称されてゐる。村の南側の山の中腹に存し、山の背後は松岡古墳群に連なる。現社殿は昭和43年に造営、氏子数138戸を数へる。この造営の際、敷地の整備を行つてゐるが、古代の遺跡の断片をも見出してをらないことは、この地を旧社地とするは無理であらう。境内の一隅に額を掲げ、志比堺には椎前神社が古く存したことをいひ、筆勢の趨くところ、この地が旧社地であつたが如き錯覚にとらはれる説明があるが、この地を含めて志比堺の境域には、他に候補となるべき地を見出し得ない。」とある。 古くはかなりの大社であったらしく、新抄勅格によると宝亀7年(776年)「越前国推前神封三戸」とあり、また宝亀2年(771年)10月詔により食封二十戸、田二町歩があてがわれてる。三代実録によると、貞観元年(859年)正月27日、「従四位上勲六等椎前神に加階あり」と載せられている。 |