往古鎮座の「木淵」は、今日字名として残つていないが、現社地より三丁余を隔てた足羽川の流右岸を指すという。 七面堂は、現在七面山常休寺といい、宗派は日蓮宗、福井市手寄1−18−16 現杉杜白髪神社の北西約400mの地である。 |
杉杜白髭神社由緒碑 杉杜白髭神社 祭神猿田彦大神 配祀 伊弉冉尊、倉稲魂命 宮比神社(境内社) 祭神天鈿売命 配祀 迦具突知尊 例祭 春5月17日 秋10月17日 神紋 八輪宝 旧社格 郷社 特殊例祭 七夜祭盆踊り 御神徳 杉杜白髭神社 主祭神 猿田彦大神 開運、厄除け、家内安全、交通安全、商売繁盛、旅行安全 宮比神社 祭神 天鈿売命 夫婦円満、芸能の神 由緒沿革 平安時代、桓武天皇の御代、延暦年間(782〜806)に坂上苅田麿が当国司であった頃深く当神社を崇敬して再建したと伝えられる延喜式神名帳に記載される式内社である。 苅田麿奉納の太刀一口をはじめ慶長6年越前国主結城(松平)秀康の定紋付きの器物、寛永12年 松平忠昌より鏡一面、剣一振の寄進あり、以来代々の国主、藩主が篤く崇敬した。 往古は足羽川木渕に鎮座していたが水害により現在の鎮座地に遷座したという。木渕の古跡は現在 の足羽川の流域右岸当神社より三丁余りを隔てた 通称モクサン渕である。 明治8年に郷社に列せられ昭和11年に神饌幣帛 料供進神社に指定されたが、昭和20年7月に戦災で総桧造りの拝殿、本殿及び樹齢800年ともい われたケヤキの大木などすべてを焼失した。昭和24年に本殿、33年に拝殿を復興後、東鳥居を新造、38年に手水舎、40年に社務所、42年に白髭会館を建設、54年に境内周囲の玉垣及び南鳥居を御影石にて造り替え、平成元年に神楽殿を建設、平成8年に御鎮座壱1300年 記念事業として本殿、拝殿、幣殿を総桧造りにて改築、同時に旧本殿を境内神社=宮比神社として拝殿北側に移築鎮座した。 この度、杉杜白髭神社御鎮座1300年式年大祭を記念してこの碑を建立する。 平成12年5月吉日 皇紀2660年 西暦2000年 社頭石碑 |
宮比神社 祭神 天鈿売命 神楽芸能の祖神 合祀 松岡町に在った秋葉神社祭神 火産霊神を享保二十年此の処に移し 更に明治四十年九月吉野下町秋葉神社 祭神迦具土の神を合祀した 社頭掲示板 |
杉杜白髭神社 創立の年月不詳。社伝によると、延麿年問〔782〜806)坂上苅田麿が国司であった頃、深く当杜を崇敬して再建したという。これに従えば、当社は奈良時代以前から奉祀されていたものと見えるが詳かではない。また、苅田麿が榊原源吾なる人物を当社に奉仕させ、その際太刀一口を奉納したという。慶長6年(1603)、越前国主結城(松平)秀康が入国して、当社の由緒を聞き、定紋付の器物を寄進したという。 寛永12年(1635)正月、松平忠昌より鏡一面、剣一振の寄進があった。以来代々の国主・藩主が篤く崇敬した。安政2年(1855)福井藩家老、岡部豊後守より備前長船祐定太刀一口が奉納されている。 しかし、これらの宝物は、昭和20年7月の戦災ですべて焼失した。 当社は、昔洪水の為に社地が崩れ川となり、当時神木のあった地を木渕と名づけているという。この水害によって現在の鎮座地に遷座したとも伝える。木渕の占跡は、現在足羽川の流域右岸、当社より、三丁余りを隔てた通称モクサン渕である。 明治8年12月、元敦賀県にて於て郷社に列せされ、昭和11年5月、神饌幣帛料供進神社にしていされた。戦後の昭和24年に本殿が、同33年五月に拝殿及東鳥居が築造された。昭和40年に社務所、42年に白髭会館、昭和54年に境内周辺の玉垣及南側鳥居が改築された。 平成元年4月神楽殿を改築。当社は、式内杉杜郡神社に比定される。 社家は「越前国古今名蹟考』に見える「別當護國山良覚院」の子孫で、先述した坂上苅田麿の臣下、榊原源吾を祖とすると伝える。 戦前の当神社を知る者で最も印象に残っているのは、なんといっても名物の大欅だという。拝殿に向って左手に御神木である夫婦木が互いに手を取り合う様に聳えていた。太い所は大人四人でも抱えきれない位の巨木で、雷が落ちてうしろになった所では畳一枚半位敷ける広さで子供達の格好の「かくれんぼう」の場所であった。又多くの刀剣類や橘曙覧等の掛け軸があったが名物の大欅とともにことごとく戦災で焼失した。古くから独特の七夜祭盆踊りがあり8月17日〜8月23日までの七夜の間、近在近郷から踊りの好きな老若男女が集って賑う、昔は踊りの輪が二重、三重にもなり夜遅くまで踊り通した。若者達の社交の場でもあったようだ。又その間特有の「だいずり」と呼ばれる一四日太鼓打ちの名人が多数現れたようだ。この七夜祭の踊りは昔ほどではないが保存会を中心に現在でも音頭に合わせて7目間行われている。 公式HP |
杉杜白髭神社 創立の年月不詳。 社伝によると、延暦年間(782〜806)坂上苅田麿が国司であった頃、深く当社を崇敬して再建したという。 これに従えば、当社は奈良時代以前から奉祀されていたものと見えるが詳かではない。 また、苅田麿が、榊原源吾なる人物を当社に奉祀させ、その際太刀1口を奉納したという。 慶長6年(1601)、越前国主結城(松平)秀康が入国して、当社の由緒を聞き、定紋付の器物を寄進したという。 寛永12年(1635)正月、松平忠昌より鏡1面、剣1振の寄進があった。 以来代々の国主・藩主が篤く崇敬した。 安政2年(1855)福井藩家老、岡部豊後守より備前長船祐定太刀1口が奉納されている。 しかし、これらの宝物は、昭和20年7月の戦災ですべて焼失した。 当社は、昔洪水の為に社地が崩れ川となり、当時神木のあった地を木渕と名づけているという。 この水害によって現在の鎮座地に遷座したとも伝える。 木渕の古跡は、現在足羽川の流域右岸、当社より、3丁余りを隔てた通称モクサン渕である。 明治8年12月、元敦賀県に於て郷社に列せられ、昭和11年5月、神饌幣帛料供進神社に指定された。 戦後の昭和24年に本殿が、同33年5月に拝殿及東鳥居が築造された。 昭和40年に社務所、42年に白髭会館、昭和54年に境内周辺の玉垣及南側鳥居が改築された。 平成元年4月神楽殿を改築。 当社は、式内杉杜郡神社に比定される。 社家は『越前国古今名蹟考』に見える「別當 護國山良覺院」の子孫で、先述した坂上苅田麿の臣下、榊原源吾を祖とすると伝える。 戦前の当神社を知る者で最も印象に残っているのは、何といっても名物の大欅だという。 拝殿に向って左手に御神木である夫婦木が互いに手を取り合う様に聳えていた。 太い所は大人4人でも抱えきれない位の巨木で、雷が落ちてうつろになった所では畳1枚半位敷ける広さで子供達の格好の「かくれんぼう」の場所であった。 又多くの刀剣類や橘曙覧等の掛け軸があったが名物の大欅とともにことごとく戦災で焼失した。 古くから独特の七夜祭盆踊りがあり8月17日〜8月23日までの七夜の間、近在近郷から踊の好きな老若男女が集って賑う。 昔は踊りの輪が二重、三重にもなり夜遅くまで踊り通した。 若者達の社交の場でもあったようだ。 又その間特有の「だいずり」と呼ばれる14日太鼓打ちの名人が多数現れたようだ。 この七夜祭の踊りは昔ほどではないが保存会を中心に現在でも音頭に合わせて7日間行われている。 又昔より33年毎に1度御開扉を斎行しており次の平成12年(2000年)の御開扉の年には合わせて1,300年の式年祭をも計画中で、その記念事業として社殿の改築及び境内の整備、さらに境内社復興のため現在の本殿を充当して、戦前の元の姿に復すべく氏子一同努力中である。 福井県神社庁 |