集落の奥。急な石段を登った山腹に鎮座している。境内からの見晴らしは良い。 社伝に、もとは霊山岳に鎮座していたが、延喜年間(901〜)敷山神社と称し、安和元年(968)、森禅空が神託を受け、大平の地(現在地)へ奉遷したという。 |
敷山神社 かわだの伝説 《敷山神社縁起》 今から約千年前の安和元年(968)3月9日の夜、霊仙ヶ岳(稲倉山)から二筋の光明が出て七日七夜明るく輝いた。付近の二十四ヵ村の人々が集まって相談し、森禅空という人を先頭にして、山に登ると二人の神様がおられた。神様は、「百姓のやり方を教えるので、よい場所に社殿を造って、私をまつりなさい」とおっしゃった。 村人が相談し、大平(おおたいら)という所に、社殿を造り、3月9日の日を待って、再び神様をお迎えした。九ツ時(真夜中)に霊仙ヶ岳には紫の雲がたなびき、神様がお出になる様をありありと拝する事ができたという。この時、桑と漆の木を授かった。 この神社は、戦国時代の武将、朝倉氏の尊崇があつく、同氏より山林、田野、刀剣や書状が奉られた。 社頭掲示板 |
敷山神社 ●稲倉山 いまから1220年前 天応元年(781年)3月9日の夜 霊仙ケ岳(稲倉山)のある所から 光明が出て七日七晩明るく輝いた。そこで 付近二十四村の人々相寄って相談し 森禅空という人を先頭にして山に登ると 二人の神様が居られた。 森禅空が恐るおそる「貴方がたは一体どなた様でございますか。又どこからお出でになられたのですか」と尋ねると、神様は「われは天地の神で 諸国の人民に百姓を教えるために 仮に人の体となって現れた。お前たちは 茅葺きの社殿を造って われらを祀れ」と おっしゃった。禅空が「それでは何処へ社殿を造りましょうか」 とたずねると 神様は 禅空の肩にのり 山を下りられた。 そして大平まで来られたとき「この大平は 汚れのないよい土地だから ここに神殿を造れ」と申された。神様は色々な種子や 百姓の方法をお授けになった。この時神様は桑苗と漆の木を賜って姿を消された。そこで人びとは相談し 神殿を造り 3月9日の日を待って 再びここへ神様をお迎えした。 その日の九つ時には 霊仙ケ岳には 紫の雲が棚引き 神様のお出でになる様もありありと拝することが出来たという。これが現在の敷山神社の起源である。先に頂いた種子のなかで 稲が一番大切であったので この霊仙ケ岳のことを 稲倉山と呼ぶようになった。 ●大平 初めて社殿を造った大平は、今公園になっているが、あの付近には昔の器物が沢山埋もれている。もしここを掘り返すと、どんな天気の良い日でも必ず雨が降るという。 ●しめじ 敷山神社の神様は毎年11月30日に出雲参りをされる。その日には、必ず境内の何処かにしめじ茸が出る。もし降雪の時には雨垂れ口の乾いたところに出るといわれている。特に事変でもあると、何時もより沢山出たという。 社頭掲示板 |