『今立郡神社誌』には、「創立年代詳かならずと雖も往古より片上庄七か村(御庄・橋立・四方谷・南井・大野.別所.乙坂)の総社にして、口碑に神亀年中僧泰澄当社に仏像を納め傍に寺院を創建して般若寺と称し寺僧をして社家と共に奉仕せしめたとある。 後方に橋立山(261m)がある。橋立山は片山庄の中心となる山と考えられ、明治期まではこの山頂に社が建立されていた。 |
春日神社由緒碑 (前略) 文明中より領主朝倉家累代の祈願所なり、年々幣帛を進献して崇敬ありしが、就中柴田勝家の臣毛受勝助は殊に帰依厚く、天正2年国内一揆蜂起の際、当社及般若寺は悉く兵火に罹りしを以って、資料を献じて社寺殿堂を再建復旧せられ、且つ久しく此の地の奉行として下民愛撫せられたれば、一郷之を徳として境内に一小社を建て自作の像を乞うて之を祀れりと云う。 (後略) 社頭石碑 |