岡太神社
おかふとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】岡本神社 越前国 今立郡鎮座

   【現社名】岡太神社
   【住所】福井県越前市粟田部町 19
       北緯35度55分6秒、東経136度14分14秒
   【祭神】建角身命 国狹槌尊 大己貴命 (配祀)継体天皇
   【例祭】4月11日 春季例祭 10月12-13日 秋季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】男大迹皇子が御潜龍の折岡太神社と号して祈誓
       明治8年県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「白山神社」と称していた
   【公式HP】 岡太神社
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神輿殿・参集殿・社務所

   【境内社】金刀比羅神社・出雲社・秋葉神社・須波阿須疑神社

集落奥の大社。
男大迹皇子が御潜龍の折、建角身命・国狹槌尊・大己貴命の三柱を奉祀し岡太神社と号して創立。


岡太神社

由緒記
 往古、男大迹皇子「繼軆天皇」当地に御潜龍の頃、漲水氾濫し、皇子甚く是を憂い、九頭龍・足羽・日野の三大川を拓き、此の地、大迹部蓬莱山の麓に、建角身命・國狹槌尊・大己貴命を奉祀し、岡太神社と号して、治山治水事業の竣功を祈誓された。即ち、今立郡十四座中の式内社である。相殿に繼軆天皇を奉祀し、明治8年、県社に列した。 殊に、皇子ゆかりの神事旧跡等が、連綿として現在に伝承されている。
王位莱祀「莱祀祭」
春正月13日(今は2月21日)皇子、河内國樟葉宮に着御する日を奉祝し、例年、山車を奉じて、街仲を巡幸する素朴な神事として知られている。
迹王の餅「堂の餅」
大和國玉穂宮に遷都賜る日を奉祝し、秋季大祭の宵宮10月12日若衆等が、迹王の餅を神前に奉納し、翌朝堂・宮講中に、御神餅を配与する伝説の儀である。
 皇子ヶ池は安閑・宣化天皇の産湯の池と伝えられる。
 薄墨桜は皇子お手植えと伝え、県内外に知られる。 謡曲「花筐ゆかりの地」として、著名である。

社頭掲示板



岡太神社

岡太神社は、越前市粟田部町19字大山3番地にあり、延喜式神明帳では旧今立郡十四座中では最も古い社である。
当神社は 建角身神 大己貴命 国狭槌尊 の三柱を勧進し、当初「玉穂の宮」と称し21代雄略天皇(456~479)以前に鎮座されたといわれている。
 男大迹の王(継体大王)は度重なる氾濫により民を苦しめてきた三大河 川の九頭竜川、足羽川、日野川を拓き、粟や麻などの栽培を奨励し住環境の改善に力を注いだと伝わっている。
養老2年(718年)正月に「泰澄大師」が巡錫(僧の行脚)の折、当地に来て仏像を勧進して神仏同体の行を納め、社名を「白山三社大権現神社」として崇めることとされた。
明治五年(1874年)に維新政府の神仏分離令により社名を県社岡太神社と改め現在に至るも、その間明治6年(1873)の大火により消失、苦難の末明治35年(1902)再建なる。

公式HP



岡太神社

社伝によると、当社の勧請は、男大迹皇子(継体天皇)が御潜龍の折、当地の水害を煩慮なされて水路をお穿ちになり、九頭竜・足羽・日野の三川を開かれた。
このとき、建角身命・国挟槌尊・大己貴命の三柱をこの地に奉祀されて、岡太神社と号して祈誓し賜うたという。
即ち、延喜式神名帳に記載の今立郡十四社の一にして所謂式内の社である。
祭礼「鳳来祀」は、継体天皇を樟葉宮に奉迎した日が、1月31日であるとして、例年神輿を奉じて市中を巡行している。
明治41年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。
また明治43年3月に、6社(貴船・天神社・金刀比羅神社・秋葉神社・八幡神社・稲荷神社)を大正5年1月16日に境内神社(彦主人王宮)を合祀した。
 当社の祭礼「莱祀(オライシ)」は、王位来祀の義と伝えられ、藩政時代には国主より代官4名が警衛として派遣された。
また里正村総代が、礼服で供奉したという。
神祇官領よりも、「定/一神事也 蓑笠不可着用事/但不法之輩強而相咎不可有夕觸穢有者也/月 日」という公達があって制札を建て、公用・私用の者の通行を止め、蓑笠着用の者の往来を禁した。
この祭礼の日には、男女を問わず、他町村に縁付きたる者が必ず帰来するのを常としたという。
また粟田部の礼日として親族知人などの訪問が極めて多く、市中大いに雑沓したという。
莱祀は、天平勝宝年中に再興してから天正元年まで退転せず、その後、乱世の世の為に暫く中絶したが、同17年より又執行したと伝えている。
以下特殊神事迹王の餅について記す。
「迹王の餅」は、毎年9月13日(現在は、10月13日)未明に行われる神事で、数十の大半桶に盛った餅を積んで献る。
これは、男大迹皇子(継体天皇)が、潜龍時代に、郷民を愛育撫恤し給うたというその厚徳に酬い奉らんとして餅を搗いて皇子に奉ったところ皇子もまた、餅を搗いて郷民を賑い給うたという故事によるものという。
 さて、村内に男児が出生すれば、迹王の子と称して迹王宮の名簿に記載する。
成人になると、筆頭の者から32人(迹王方16人・宮方16人に分れる。)が選ばれ、迹王若者と称して、当年の迹王の餅を献る当役となる。
当日捧げられた餅は迹王の子たる者に頒たれる(迹王方の名簿にあるものは餅9個を、迹王方・宮方の名簿につく者は、餅18個づつを配与される。)
次に、当社にゆかりのある史跡に、「皇子の池」「皇子の森」がある。
前者は、安閑・宣化天皇の御産湯に使用した池と伝え、後者両天皇の御降誕の地と伝える。
また、男大迹皇子の妃、佐山媛の古跡や、皇子に近侍したという帝々左衛門居趾などが知られる。
また皇子御手植の桜と伝えられる花筐桜(薄墨桜)は文化財に指定され著名である。
明治44年2月に設けられた供御田も存在した。

福井県神社庁



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