往昔は式内の大社であったという。 鳥居の額には「加茂神社」とある。 集落の上に鎮座しており、海がよく見える。 |
加茂廼神社 創立の年月不詳。 口碑によれば往昔は式内の大社で社領八十石を有し、近郷の総社であったという。 社伝に大丹生浦に閑居していた多田満仲(藤原藤房卿)は当社をも崇敬し天徳元年(九五七)社殿を改築し金銭や穀類を寄進され、更にその祭典には甲冑を着し参詣したと伝える。 神輿は七基あり、鮎川浦は勿論一光村や五太子村までも御輿渡御があったがいつ頃からか廃れた。 此の時、勿体無くも御神体が倒れ転げた此の所を「仏畑」また珠数がかかった所を「珠数畑」と言うようになった。 明治21年11月村社に加列。 同44年九月五問四方の社殿を改築して本殿を建て前口三問半奥行四問の鞘殿を新築。 前口五問二尺奥行四問一尺の拝殿と間口一間二尺奥行二問三尺の廊下横三尺縦一問の手洗所を新築した。 大正2年8月19日福井県の許可を得て同字神明堂の天照皇大神を祀る無格社大嶽神社と豊受大神を祀る同境内社の大聖神社及日本武尊を祀る同境内社の守黎神社、同字男山の応神天皇を祀る無格社男山神社を合併し境内社とした。 大正3年8月26日神僕幣吊料を供進することを得る神社に指定された。 江戸時代から明治・大正と北前船が当地からも出帆し隆盛をきわめた。 その時の航海安全の祈願絵馬が拝殿に数多く奉納されかかっている。 海の男の心意気から境内での奉納相撲は盛大で近村からも大勢の青年達が集り技を競った。 昭和の中頃より青年の職業多様化と減少により行なわれなくなった。 福井県神社庁 |