賀茂神社
かもじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】雷神社 越前国 丹生郡鎮座

   【現社名】賀茂神社
   【住所】福井県福井市加茂町 7-1
       北緯36度1分13秒、東経136度6分58秒
   【祭神】別雷神 大己貴命 玉依姫命 伊賀古夜比賣命 (配祀)神武天皇 弓矢大神
   【例祭】4月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】養老元年(717)京都賀茂両宮を奉齋
       元慶年中多田満仲山内に居住種々の寄進
       元亀、天正前後度々兵火に罹り焼失
       明和3年(1766)火災

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・中門

   【境内社】

台地の上。小学校の北に鎮座する。
当地は志津荘といい、古くは京都賀茂神社の荘園であった。
国指定無形文化財「睦月神事」を伝承する。
元正天皇の御宇、養老元年(717年)に社家廣部の祖である廣部民部が京都賀茂両宮(賀茂御祖神社 下鴨神社)、賀茂別雷神社 上賀茂神社)の御神璽を当地に奉斎し、賀茂下上大明神と尊称する。
神職は養老元年創建より代々奉仕して40代以上。特に遠祖賀茂氏(陰陽師安倍晴明の師匠)より伝えられし守札の秘伝書により慎重に謹製した300種以上の特別調整守札を授与している。





睦月神事

賀茂神社で4年に一度(一部は毎年)、盛大に行われる睦月神事は、昭和53年国の重要無形民俗文化財に指定された由緒ある神事です。
700年以上の昔、新年にあたり「天下泰平、国家安穏、五穀豊穣」を神に祈願したのが始まりと言い伝えられています。
神事は早朝5時、太鼓の合図で神楽、やっこ、大うちわと続く約100人の道中行列が町内を練り歩き、祭場へ向かいます。祭場では米俵の上に作った舞台で子供たちが次々と「祝い中」や12本の竹すだれを手に4人で舞う「ささら」、鶴の舞いを真似た「もどき」、「さいやいや」などの舞いを奉納していきます。 祭詞は昔、京都で創作されたものらしく、長い歴史の中で今のような形に落ち着いたようです。

http://www.sugegasa.shimizu.fukui.jp/shimizu/event/mutsuki/index.html



賀茂神社

賀茂神社大鳥居
清水町指定文化財第10号
昭和55年2月25日指定
両部式鳥居で、高さ9m・幅10.5m、柱の周囲2.3mもの大きさを誇る朱塗りの大鳥居です。
また賀茂下上大明神と書かれた扁額も高さ1.8m・幅1mという大きなものです。
賀茂神社の社記の伝えるところによれば、本鳥居は江戸時代の元禄年間に造営されたこと、扁額の揮毫が福井藩の儒学者伊藤坦庵の筆によるとのことです。
清水町教育委員会

社頭掲示板



賀茂神社

賀茂神社脇社祇園社
清水町指定文化財第3号
昭和51年7月1日指定
江戸時代前期の寛文9年(1669)に造営された二間の流れ造りの小社で、社殿部の三方を回廊が囲む、外陣が開放された中世の神社建築のおもむきをのこしています。
社殿部分は一間四方で、組み物は三斗組二手先で、かえるまたには透かし彫りの彫刻が入っています。
清水町教育委員会

社頭掲示板



賀茂神社

丹生郡清水町の北部を流れ、日野川に注ぐ志津川の中程、小高い位置深い緑の中に鎮座する。
参道はかなり距離がある。
正面に朱塗りの両部鳥居(柱間6.6m)が太いしめ縄を携えて建つが、実は二本の縄を一本にしめ込んだもので、男と女すなわち夫婦和合を表わしている。
鳥居を潜ると木々の生い茂った広い境内が広がり、正面に拝殿、その左に社務所が続く。
拝殿の背後に本殿とその両脇の脇社が石垣を築いた高台に建ち、石垣上には神門が建つ。
 社伝によれば、延喜式神名帳に記載されている式内社丹生郡「雷神社」に相当。
創建は養老元年(717)社家廣部の祖廣部民部が賀茂両宮を勧請。
その後越前の国司であった源満仲公より天慶年間(938〜947)各種の寄進があったのをはじめ、南北時代の護良新玉、戦国時代の朝倉家、羽柴秀吉、丹羽長秀各氏より諸役免除等の書状、寄進や崇敬を受け、近世にはいっても福井藩主松平氏の代替りの際、参拝されている。
いずれにしても歴代の国主・藩主らの崇敬あつく、霊験あらたかな社として人々の生活を守って来た古社である。
日本でも珍しい電気・電波の神を祀り、家内安全・夫婦和合・商売繁盛、病気平癒・厄除・安産・除災招福の守護神であり、さらに子供に恵まれる・妊娠の中絶・男女離別・勝負に勝・方除・金持ちになる・合格・祟りを治す等々人間の欲のほとんどを満足させるお守り九十種を授けているので著名である。
 また社殿等は天正年間(1573〜91)の一向一揆・元禄年間(1688〜1704)と明和三年(1766)4月18日の火災で被災。
現本殿は、享和元年(1801)、本社右の脇社祇園社が寛文9年(1669)、左脇社白山社が宝暦8年(1758)に再建された。
天明3年(1783)再建の拝殿は、帯鋤小学校として使用していた明治9年に焼失し、現拝殿は大正6年に再建されている。
正面に大千鳥破風・唐破風を付けた平入り入母屋造。
銅板葺の本殿は身舎平面を正面桁行約5.8m側面梁間約5.6mのほぼ正方形。
石積基壇上に礎石を据えて建ち、3間の向拝を角柱とする他は円柱にて、4周に刎高欄付きの切目縁を廻し、向拝柱の建つ浜縁にかけて5級の木階を設ける。
縁・腰・内法の長押と頭貫を施し、柱上には和様出組を置いて軒支輪を設け、中備は装飾的な蟇股を向拝に配し、他は間斗束。
向拝と身舎の側柱筋に海老虹梁を架け、正面中央間を両開きの菱格子戸、脇間を菱格子、側面一間を板戸とし残りは板壁。
祭礼は以前流鏑馬の神事及び競馬等も盛大に行われていたが、天正年間(1573〜1591)の兵乱より後は中絶する。
しかし馬場先は今も現存する。
2月14日には天下泰平、田作、養蚕、五穀成就を祈る約700年前より伝承されし特殊神事「睦月神事」を今尚盛大に執行(昭和28年福井県無形文化財、昭和53年重要無形民俗文化財)。
社地は境内外廣部社家の所有地を第24代廣部兵部太夫の時、神社所有地とし、神社風致の維持と共に廣部社家の永代を計って来た。
神職は養老元年神社創建より代々奉仕し、現神職にて43代。

福井県神社庁



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