社伝に依ると国開闢の神として丹生嶽に鎮座していた、崇神天皇の7年神地を定め、大蒸大神と称えた。垂仁天皇の26年国中に蝗虫が蔓延し、之を祈願するに悉く退滅し爲に五穀豊作した事が朝聞に達し、いたく神徳を尊み給い今の宮地に遷し、虫除守護の神威を仰ぎ大虫神社と称えたという。 当社の元社地である鬼ケ岳(西2.4Km 標高532.6m)に当社の奥宮にあたる龍前神社がある。 式内社・雨夜神社は大虫大神の御子神を祭神としていて、大虫大神とともに丹生嶽に鎮座していた。中古、下大虫村に小虫神社と並んで鎮座していた。 |
大虫神社 大虫神社の由緒 祭神天津日高日子穂穂出見尊 当社は式内名神大社にして延喜式記載の大社なり。神代より当村(丹生嶽)の天領にましまし、土地かいびゃくの神にて当初は大蒸神社と称し奉る也。第10代崇神天皇7年(西暦前91年)11月、神地を定め給ひ、第11代垂仁天皇26年(西暦前4年)国中蝗虫多く発生、五穀人畜に害するを以て勅使を下向、国民挙げて当社に祈願するに蝗虫悉く退滅、五穀豊作せし神徳を尊び給ひ、勅命にて7月16日今の宮地に遷宮し、虫除守護の神威を尊み、大虫大明神の称号を賜り七十五町歩の地を御田代と定め百二十戸の社家を封納あり。第42代文武天皇2年(705)8月名神の官社とせられ下りて戦国時代、新田、足利、斯波、朝倉等の諸将信仰厚く、本殿、拝殿、末社四十八社、回廊等に壮麗な大社なりしが、天正4年(1576)4月24日、柴田勝家の為に焼廃せしを太閤秀吉公再興、続いて松平越前守秀康の命により、本多伊豆守修造あり、その後代々の領主崇敬あり、奉納物多く又修造される。天正11年(1583)より式内社小虫神社(祭神豊玉姫命)、雨夜神社、雷神社、若宮神社を大虫神社に合祀す。 神位正一位勲一等村上天皇天徳3年(959)4月16日。 天津日高日子穂穂出見尊 豊玉姫尊正二位(1185) 社頭掲示板 |
大岩神社 当社は大虫神社の奥の社と称し、古代より上大虫村(大虫村)山地字水谷に鎮座、神体磐石に座処往古より神変、奇異の神徳あり。 後陽成天皇 慶長13年(1608)3月4日連縄を張る 明正天皇 寛永10年(1633)社建立 桃園天皇 寛延3年(1750)小鳥居を建立 「帰贋記」に上大虫の西の山に神という石あり。又天狗岩ともいひならはせり。此の石みずから動いて山下、山上の所を変える事ありと、昔よりいひ伝えられる。 石は又五尺四方計(約1.5m)有りて人力の及ぶ所にあらずとある。 社頭掲示板 |
祖霊社 天正4年(1576)4月24日当時越前の国を支配していた柴田勝家の重臣。尾上茂右衛門の率いる大軍が大虫神社の焼討の暴挙を行い本殿、拝殿等十数棟全てを焼き討ちした。これに立ち向い防戦した大宮司岡野吉忠ほか権宮司、社家等142柱の御魂が合祀されている。 一方、鬼ケ嶽の奥深くへ難を逃れがため数人の社人が、ご神体を背負い奉り奥山でお守りすること8年、その後秀吉公が再興し現重要文化財である。そのご祭神が遷宮される。 毎年5月上旬御魂社祭を行う。 社頭掲示板 |
石神の水 石神の水(神の水)湧水 大虫町集落西方に往古よりかれることのない石神の湧水(神の水)をゆかりの地大虫神社境内の手水舎と泉地にこの度導水いたしました。 過去半世紀に亘り簡易水道の水源としてこの長寿の水を飲料として利用して来ましたが、設備の老巧化を期に市上水道に加入した為2000年大祭記念事業としてここに完成いたしました。 カルシウム・マグネシウム・ナトリウム・カリウム等の成分が豊富に含有する弱アルカリの硬水で体に最も適した飲料水とされています。 平成8年10月6日 大虫神社奉賛会 社頭掲示板 |
重要文化財 木造男神坐像 (伝天津日高日子穂穂出見命) (伝塩椎神) 平成6年6月28日 指定 大虫神社の主神と伝えられる天津日高日子穂穂出見命は、神像特有の素朴かつ地方色が濃い造形ながら平安時代後期(十一世紀後半ころと推定)に遡る数少ない大型の遺例として注目される像である。 一方、摂社塩土社に祀られる塩椎神は、桧の一材から端然と坐す品格ある姿が巧みに彫成されており、洗練された作風を示している。その彫り口は10世紀の制作とみられ、男神像の古例として重要視される像である。 神像彫刻は、仏像彫刻の影響を受けて奈良時代に登場したようであるが、現存作例は9世紀後半から見られるようになる。本像二躯は、その初期神像の数少ない遺例の一つで優れた出来栄えを示し、大変貴重なものである。 社頭掲示板 |
大虫神社 崇神天皇7年丹生岳(現在の鬼ヶ嶽)の峯に鎮座された。式内名神大社にして、土地開闢の神で、あらせられる。 垂仁天皇26年国中に蝗虫がたくさん増えて、五穀作物を食いあらした。人々は大変困り国民挙りて神社に祈願すると、不思議にも蝗虫はことごとく退滅し、五穀豊作となる。以来人々はこの神社を五穀豊穣の神として信仰するようになった。 この事が朝廷にも達し、いたくその神徳に感心されて、今の宮地に遷して虫除守護の神威を仰ぎて、大虫神社を称え奉った。 文武天皇、慶雲2年8月、名神大の官社とされた。新田・斯波・朝倉等の諸将、篤く崇敬されて、天正年間までは、社領2万8千石を領し、壮麗な大社であったが、天正4年4月24日柴田勝家のために焼廃された。 この時、宮司、村人御神体を命をかけて丹生岳の祠に鎮め奉り、守護申し上げた。その後、豊臣秀吉によって再興、続いて松平越前守秀康の命として、本多伊豆守が修造される。以後、代々の領主、深く進攻された。天正11年、小虫神社・雷神社・若宮神社を合殿に合祀した。明治8年県社に列せられた。 福井県神社庁 |