安永6年(1777)6月15日に、藩主酒井忠香が神祇伯白河家より、神霊を戴いて山上の旧五幡神社跡に再建した。 明治39年1月1日焼失のため、参拝にも不便として山麓の方へ移した。 八幡神社の奥宮のようである。 石段左に万葉歌碑がある。 掾久米朝臣広繩が館にして、田辺史福麻呂に饗する宴の歌 大伴家持 巻18-4055 可敝流廻(かへるみ)の 道行かむ日は 五幡(いつばた)の 坂に袖振れ 我われをし思おもはば (可敝流山あたりの道を行く日には、五幡の坂で袖を振ってください、私を思ってくださるなら。) |
五幡神社 当社は古来五幡大明神又は明神様とも称し奉り、延喜式の内の社である。 式内祭考によると、三女神とあり、又神氣比宮社記には八幡宮也、又曰く仲哀天皇奉勧請之神祠也とあって、未だ確証得難いが、五幡の御社号につきては、氣比宮社記に「蒙古将襲我国來于北陸之海上時鹿比流山ノ麓五ツノ旗靡キ揚ル事数日也云々其五幡旗之現レシ處ヲ号五幡神是也」とある。 此社は久しく廃絶してゐたが、領主鞠山藩酒井忠香、其の当趾の没するを憂へ、有司の命を乞い、神祗伯白河家より神霊を奉祀した、これ安永六年六月十五日の事である。 敦賀郡神社誌 |
五幡神社 近隣の集落では珍しく二つの神社が鎮座する 五幡の家々は区の西域に、まるで寄り添うようにひと固まりになって建つ。時折、海からの風に乗って海水浴を楽しむ子どもたちの歓声が届くが、集落内はひっそりとしている。東に目を転じると、水田が連なり、その奥の丘陵の麓に鳥居が見える。入幡神社である。 八幡神社の鳥居をくぐり石段を上る。すると社殿の右手に五幡神社の鳥居が現れる。その鳥居の先にも石段が続き、上り終えた先が五幡神社の社殿で、八幡神社の奥の院という位置に鎮座している。五幡神社は延喜式に載る古社で、古くは山頂付近にあった。それが1903(明治36)年に焼失し、3年後に再建した際、現在の地に移したという。 二つの神社で営まれる祭礼のなかでも、特に華やかなのが八幡神社の例大祭である。無病息災、家内安全を願って、境内で神楽獅子が舞う。奉納を終えると、獅子は区内の各戸を巡回し、悪魔払いを行う。以前はさまざまな舞が境内で舞われていたそうだが、近年は後継者不足もあって、年々規模が縮小されている。鎌倉時代から伝わるとされる、伝統の祭りだけに残念なことである。保存会が伝承に努めているそうだ。 背後に緑濃い山々を負い、山裾から広がる田では青々と育った稲が風に揺れる。空ではピーヒョロロとトンビが輪を描く。敦賀の景勝地10カ所を描いた詩画集『敦賀十勝』(明治10年出版)にある五幡の風景が今も残っている。 郷土の歴史に触れる 浜風吹く五幡 |