敦賀志に「和志前神社式内今は御社ハなし、沓浦と手浦との間巖壁数丈の面に種々の貝殻生着自彩色して鷲のかたちとなせり、是をわし崎の神巌と云、和志前社ハ其巖の南に南北二丁許の白濱有て金屋濱と去、其処に坐しか、一年山抜の爲に御社も杜も流れ行しと西浦人ハ云傳ふ、此濱に出る渓川あり、水至て清し」と記されている。 西浦の沓浦と手の浦との境堺近くの鷲ヶ崎付近に鎭座していた様である。しかし、敦賀志に山抜とあるやうに、敦賀半島は花崗岩からなる地質であるため大変もろく、洪水で土砂崩れの被害によつて流出したか、埋没したのであろう。 廃絶したものと考えられる。祭祀を継承した神社も不詳。 |