境内地は背後に巨大な高さ10m以上の鉾立状をした明神岩がせまり、社殿の周辺には巨礫が散布する。 この神社の最も古い信仰形態は古道に伴う峠神・手向神か、神霊の降臨する明神岩を対象とする磐神の信仰から生まれたものと思われる。 |
漆山神社の明神岩 橘南谿が東遊記の中に、蒲萄の漆山神社のことを次のように書いている。挿絵も入れてある。 「此夜つくづく思うに、今日の所だにかくのごとし、明日の道は名におうぶどう峠にて、北地第一の雪所なれば、いかなる難儀にか及ばん。ただ早天雪凍りて堅き間に、案内者をやとい越すべしと用意して天明6年(1786年)3月19日また明けはてぬより立出て、案内を先に立て、道をいそぐ。誠に聞きしに勝りて。数丈の積雪、山は白銀をもて作れるごとく。樹木も見えず。されど案内者あれば道もたどたどしからず。程なく頂きに至れり。 此所に矢伏明神とて神祠あり。 此所は山のふところなる故にや、雲もやや少なく覚ゆ。神祠の後に岩穴あり。明神の住み給う所なりという。此岩穴の上の方に甚だ高き絶壁あり。岩の高さ三十丈余(百メートル)ありという。其の岩の辺に古木の杉数十本あるに、その杉の梢ようよう岩の半に及べり、此辺は誠に唐画を見るごとく奇絶比類なし。雪は一しきりずつ降り来り寒気誠に甚だし。それより中村、中次、荒川、小股、小鍋などの村々を通るに……」 此の杜は朝日地区唯一の延喜式内社の漆山神社である。その社名の示す通り一千年前から漆液産地の中心であり、それの支配勢力者の根拠地がこの神社を中心にした集落であったろう。直立百メートルの明神岩は今も千年前と同じく神気を込めて立ち、丸山のふもとを洗い明神の前を通り、寒川に合流するまでを明神川という。 −朝日村史より− 村上市HP |