当社から岩船町の石船神社まで,砂丘が3.5キロメートルほど続くが,この間のどこかに大和朝廷の北方経営の拠点「磐舟柵(いわふねのき)」があったと考えられている。 始めは今の庄内町の地に鎮座、その後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松に遷。元和4年(1618)堀丹後守直奇が村上城主となった時、 城郭と城下町の構築を大々的に行われた際に、宮を城から見下しては恐れ多いとして、新田町の清浄な高台(現在地)に社殿を造営し、寛永10年6月7日に遷宮した。 |
由緒 西奈彌羽黒神社 当社は、村上市村上羽黒町に鎮座しており、奈津比売大神、倉稲魂大神、月読大神をお祀りしています。 社伝によれば持統天皇の元年(687)に西奈弥山に鎮座の由とありますので、延喜式の西奈弥神社との関係が考えられます。往時、西奈弥羽黒山三社大権現と称していたのは、天正16年(1588)に当村上の城主本荘繁長公が、出羽庄内(今の鶴岡市附近)の最上氏や東膳寺氏を攻めた時その地の羽黒山大権現に戦勝を祈願し、めでたく庄内地方を平定して手中に収めたので、凱旋の際に羽黒山の御分霊を勧請して、この地方の総鎮守として祀られたからです。始めは今の庄内町の地にありましたが、その後に臥牛(がぎゅう)山の麓の二本松という処に移され、元和4年(1618)に堀丹後守直奇公が村上城主となられて、城郭と城下町の構築を大々的に行われた際に、総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、新田町の清浄な高台(現在の場所)に社殿を造営し、寛永10年6月7日に御遷宮されました。 当社は歴代の藩主の信仰が厚く、社領田や社料米の御寄進があり、社殿の造営や修理はすべて藩の仕事として行われてきました。明治維新以後は村社から郷社に、そして県社となり村上はもとよりこの地方の人々の崇敬厚い神社でした。その事は戦後の混乱期も現在も変ることがありません。 摂社の神明宮は寛文12年(1672)に藩主榊原熊之助政倫公の勧請です。この社殿は元禄3年(1690)5月に時の藩主榊原式部大輔勝乗公が羽黒山三社大権現の御本殿として建てられたものです。明治12年から現在の羽黒神社の社殿の造営が行われたとき、神明宮の社殿とされました。昭和44年に新潟県文化財として指定され、翌年8月から解体復元工事を、県と市の補助金を仰ぎ氏子はじめ各方面から寄進された浄財で行い、昭和46年5月24日に元禄の昔の華麗な姿に復しました。社殿の前の、新潟県文化財神明宮社殿の石柱は、新潟地震で大破した大鳥居(享保14年に前藩主間部公が越前鯖江から寄進)の柱の部分を用いたものです。 当神社の祭礼は7月7日に行われます。これは寛永10年の御遷宮の日の6月7日を毎年の祭礼日としてきたのですが、明治になって新暦に改められてから7月7日としたものです。 この祭礼には三基の神輿が町中を御巡行になります。神輿は寛文9年(1669)に榊原家から御寄進になり、嘉永5年(1852)に時の藩主内藤信親公が大修造をされ、去る昭和48年に氏子の御寄進によって再度大修復が行われました。 神輿の御巡行には、庄内町の少年が奉仕をする荒馬14騎が前駆し、19台の華麗な屋台が供奉します。 屋台は全部で19台。うち6台は囃車(おはやし)・8台がシャギリ車で、いづれも村上の工匠たちが腕を競って作ったもので、彫刻と漆の技術の粋を結集したものです。その半数以上が明治以前のもので200年を越すものが3台もあります。 荒馬は本荘繁長公が羽黒山の御分霊を奉じて凱旋された姿を模したものです。それぞれの武将の旗印を背に立て、浅葱染の衣装に古羅紗の腹掛、手甲脚絆の姿も凛々しく、白馬・黒馬・鹿毛・栗毛の轡をならして、掛声勇ましく行進する姿は圧巻といえましょう。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
西奈弥羽黒神社 羽黒神社・神明宮神殿 羽黒神社は、出羽庄内の羽黒三社権現をまつったものではじめ臥牛山にあり、寛永10年(1633)現在地に移された。境内の神明宮神殿は元禄3年(1690年)に、当時の村上15万石の藩主榊原式部大輔勝乗侯によって建立されたもので桃山風の建築様式で県の文化財に指定されている。なお、羽黒神社の遷宮祭を行った7月7日は、村上大祭として榊原侯寄進の三基のみこしと村上の漆工芸の粋をあつめた屋台が豪華にくり出される。 新潟県 村上市 社頭掲示板 |