石船神社
いわふねじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石船神社 越後国 磐船郡鎮座

   【現社名】石船神社
   【住所】新潟県村上市岩船三日市9番29号
       北緯38度11分47秒、東経139度25分56秒
   【祭神】饒速日命 水波女命 高おかみ神 闇おかみ神
       『神社覈録』『北越風土記節解』『神祖志料』『越後野志』饒速日命
       『大日本史神祇志』『地理志料』天香語山命
       『越後国式内神社案内』貴船大明神
       『神名帳考証』船霊

   【例祭】10月18-19日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大化4年(648)磐舟柵が設置。すでに石祠があつた
       大同2年(807)9月秋篠朝臣安入社殿建立
       この時より貴船大明神と称した
       正徳4年(1714)8月28日石船神社に復号
       天正8年(1580)11月16日社殿再建
       天和7年(1621)堀丹後守直寄神領寄進
       明治32年造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「貴船大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・神饌所・手水舎

   【境内社】若山神社・岩舟招魂社

大化4年(648)の條に「治磐舟柵設備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸。」との記録があり、昭和32・33年に岩船神社の裏手の明神山から浦田山にかけて考古学的な調査が進められ、石畳状をした石組遺構や住居跡などが発見された。この一帯が磐舟柵跡に擬定されている。


由緒

越後國磐舟郡式内社石船神社参拝のしおり
御祭神伝説
石船神社(イワフネジンジャ)は、平安時代、醍醐天皇の延喜年間の勅命によって定められた法制四部のひとつ延喜式神名帳(927年)に、越後國磐舟郡筆頭のお社として記載されており、古くから郡内広く信仰されてまいりました。
御祭神の饒速日命は物部氏の祖神で、天の磐樟舟(アメノイハクスフネ)に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕の技術をお伝えになったといわれます。また水波女命・高オカ神・暗オカ神は京都の貴船神社の御祭神で、おもに水や舟を司ります。現在でも、明神様と呼ばれるのは、貴船大明神に由来いたします。
日本書記、孝徳天皇の条に、大化3年(647年)に淳足柵が、翌4年には磐舟柵が蝦夷征討の前進基地として築かれたとあります。既にこの頃から、磐舟という地名が存在しており、社伝にも石祠があったといわれます。この磐舟柵の築かれた場所に関しては、学問的には未だ解明されてはおりませんが、この神社の丘陵地一帯にその遺構が眠っているものと思われます。また、眼下に流れる石川はかつて琵琶潟と呼ばれた潟の名残であり、これも日本書記、斉明天皇の条で、朝廷に遣わされた越の国守阿倍比羅夫が、蝦夷征討のため百八十艘の軍船を率いて出発した、という史実の根拠地として可能性が高いと思われます。現在、地名として残っている岩船郡は磐舟柵・石船神社がもととなって成立したのです。
その後、大同2年(807年)秋篠朝臣安人が北陸道観察使としてこの地に下向した際に、社殿を建立し、越後國北方の鎮護の神として京都の貴船神社の御祭神を勧請したと伝わり、鎌倉時代以降は平林城主、色部氏、江戸時代以降は歴代の村上藩主にも崇敬されました。
正徳4年(1714年)宣旨により正一位の神階が授けられており、明治5年には県内でも二番目に縣社に列せられました。
例祭日は10月18・19・20日で、今日のように御神輿と御舟をはじめとする屋台で賑わうようになったのは江戸時代中期頃からです。昭和62年、この岩船まつりが県無形民俗文化財に指定されました。
神社の社叢はヤブツバキの群生地として、昭和33年、県天然記念物にも指定されております。
或る年の冬の淋しい晩であった。遥か沖合から、異様の舟で異様の人が濱を目指して漕いで来る。見れば、珍らしい石の舟に乗っている人は、如何にも神々しい姿であった。舟を乗り捨てると、其の人は藤のつるに掴まり、漸く濱の村に上がった。其の旅人は一軒の家を訪ね一夜の宿を頼むが、鮭の酢漬つくりに忙しい其の家では旅人に耳を傾けはしなかった。旅人が別の家を訪ねると、其の家の妻は身篭もっていたが旅人を心づくしのもので饗してくれた。
翌朝、冬には珍しく晴れ渡った日であった。今日こそは大漁であろうと村の漁民達は沖に出ようとした。すると旅人は、今日は不漁なり、出るだけ骨折りなり、と云う。此の意外の言にも漁民達は耳を傾けなかった。しかし漁より帰った漁民の魚籠は軽かった。
其のまた翌朝、近頃になく海は荒れた。漁民達は誰一人沖に出ようとしなかった。その時例の旅人は、今日こそは漁あらん、出漁してみよ、と云う。半信半疑の漁民達は前日の事もあり、不漁覚悟で沖に出てみた。然るに沖はそれほど荒れてはおらず、魚籠を重くして濱の村に帰ってきた。それからというもの濱の村では此の不思議が喧傳され、漁民達はこの旅人にその日の漁の如何を訪ねるようになった。そして其の旅人の云うことが百発百中であることに何人も驚き、果てはこれこそ漁の神ではあるまいかと、崇敬下へも置かなかった。そればかりか其の旅人に製塩・農耕・養蚕等の万事について迄、遠く訪ねて来る者もあった。
暫くして例の旅人は此の地を去ることになった。村の人々は、とどまってほしいとたって願ったけれどもそれはできない相談であった。旅人が、今後若し漁不漁の事を聞きたからば山上の観音を拝すべし、然る時は自ら体得することあるべし、と一言を残し、飄然として此の村を何處ともなく去った。其の後、漁民達は出漁毎に其の観音を詣でたが不思議に其の日の出来が首肯かれた。人々は先の旅人が今更に神であったことに心附き、社を建て厚く之を祀った。
これが、今の石船明神であって、磐舟(岩船)の名は勿論、神様が石の舟でこの地に漕ぎ附けた事から名づけられたものです。また此の言い伝えから、神様はお産を嫌いませんし岩船の人達も神様がお掴まりになった藤のつるを大切にし、焼かないことにしています。そして石川にのぼった鮭をとりませんし、鮭の酢漬けもつくりません。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



石船神社

越後國磐舟郡
式内社〔旧縣杜〕
石船神社
新潟県村上市岩船三日市9番29号

岩船まつり(県無形民俗文化財)
当神社の例祭は、御祭神饒速日命が、天の磐樟舟に乗り、この地においでになられたと伝わる日(現在は10月18・19日)を記念して行われております。
古文書によりますと、祭礼の神賑行事として、天正年間(1573〜1600年)に射的や相撲、その後、踊り、狂言、笠鉾などが登場しており、元文4年(1739年)の記録に、屋台(シャギリ)を曳き廻した様子が、初見いたします。
現在の様子は、19日早朝に、拝殿前へ御神輿を中心に御舟と御神馬を据えて、奉遷の後、先太鼓と木遣りを先頭に御舟・御神輿・御神馬の順で境内をくだり、各町内から曳き出された屋台(合計九基)と共に御神幸いたします。
小気味よい調子の先太鼓、荘重な御舟の木遣り、まつり囃子も賑やかに、絢爛豪華な屋台が、深夜の入御まで町を練り歩きます。
また、出御・入御の一連の神事は、その様子から『とも山』行事とも称されております。
石船神杜由緒
かつて、この地方(村上市・岩船郡)は、『磐舟郡』と総称され、平安時代の延喜式神名帳(927年)には、越後國磐舟郡で筆頭のお杜として、当神杜、石船神杜〔イワフネジンジャ〕の名が記載されております。
「磐舟」という地名もたいへん古く、文献では日本書紀・孝徳天皇の条、大化4年(648年)に、『磐舟柵』が蝦夷征討の前進基地として築かれた、という個所に見られます。当時より、交通の拠点であり、風向明媚である当地は、県内でも指折りの歴史と伝統をもつ地域です。
古くから、郡内に限らず、広く信仰されてまいりました当神杜では、四柱の御祭神をお祀りしております。
饒速日命〔ニギハヤヒノミコト〕は、物部氏の祖神で、天の磐樟舟〔アメノイワクスフネ〕に乗ってこの地に上陸され、航海・漁業・製塩・農耕・養蚕などの技術を近郷近在にお伝えになったといわれ、「磐舟」の地名は、この伝説に由来するものです。(丈夫な舟は繁栄をもたらすという、おめでたい意。)また、水波女命〔ミヅハノメノミコト〕・高?神〔タカヲカミノカミ〕・暗?神〔クラヲカミノカミ〕は、大同2年(807年)に北陸道観察使の任であった秋篠朝臣安人が、この地に下向した際に、越後國北方の守護神として京都の貴船神社から勧請したといわれ、社殿建立時に合祀されたものと伝わります。
おもに、水や舟を司る神として広く知られ、信仰されております。
一千年以上も前から、この地を治めた数々の有力者、鎌倉時代以降は平林城主、色部氏、江戸時代以降は歴代の村上藩主にも崇敬され、この地域の鎮守の御社として手厚く保護されてきた様子が、数々の古文書からもうかがえます。
正徳4年(1714年)、宣旨により正一位の神階が授けられ、明治五年には、國幣中杜弥彦神社についで、県内では最初の縣杜として、加茂の青海神社とともに列せられております。
例祭日は10月18・19日で、現在のような御神輿と御舟をはじめとする屋台[シヤギリ]行列で賑わうようになったのは江戸時代の中期頃からです。
昭和62年、この岩船まつりが、県無形民俗文化財に指定されました。
神社の社叢は[ヤブツバキ]の群生地として、昭和33年、県天然記念物にも指定されております。

由緒書



石船神社

岩船町の氏神として広大な森を背景に松林の中に鎮座する石船神社は、岩船港や漁業の安全を見守るように建っている。
この神社は延喜式の磐舟郡八座の筆頭に記されていて、古くからある神社であり、祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)、岡象女命(みずはのめのみこと)、高お神(たかおかみのかみ)、闇お神(くらおかみのかみ)の四神である。饒速日命は物部氏の祖神で、岡象女命以下は貴船神社の神々でこの神社を明神様ともいう。
毎年10月19日にはお舟をのせた屋台を先頭に9台の屋台が町々を巡行して、岩船まつりが行われる。

社頭掲示板



石船神社

石船神社(式内社)由緒
一、御祭神
 饒速日命 (にぎはやひのみこと)
 罔象女命 (みずはのめのみこと)
 高おかみ神 (たかおかみのかみ)
 闇おかみ神 (くらおかみのかみ)
一、創建
大化4年(648)磐舟柵がおかれたとき、 石の小祠があったと伝えられる
大同2年(807)北陸道観察使秋篠朝臣安人が京都の貴船明神を勧請され奉祀される
一、境内地
約4,000坪(約13,300u)
社叢、椿林、他(天然記念物)新潟県文化財に指定
境内社、金比羅神社 他
芭蕉句碑、二基
磐舟招魂社、磐舟柵跡碑
祭礼屋台倉庫、二棟九台分
一、例祭日(岩船まつり)
毎年 10月18日(宵宮)10月19日(本祭)
新潟県無形民俗文化財に指定
平成15年10月
石船神社氏子会

社頭掲示板



祭神

祭神に関しては諸本により異なるが、實質的には二系統の祭神に整理することができる。すなはち、饒速目命系(天香語山命)と水波女命系(罔象女命・貴船大明神・船霊・高おか神)である。両系の神を奉祀するに至つた理由及び二神奉祀の前後関係についてを示す文献はない。『特選神名牒』では「祭神饒速日命とあれど、こは天磐船に乗て大和國に天降りし故事によりて附會せんならん」としてゐる。しかし、式内社は國司の所管の官社であり、岩船神社の成立と磐舟柵とは無関係ではなく、城護神として柵戸に崇拝され、征夷の軍事的意義から軍神・武神を奉祀するのは當然であらう。かかる意味から、祭神として物部氏の祖にあたる饒速日命が最も古く奉祀されてゐたものと考へられる。その後、日本海沿岸の航路が軍事的に重要な役割をもち、古岩船潟を中心とする港及ひ海上交通の安全なとと結びつき、水神や船に関する系統の祭神が併祀されるやうになつたのではないかと考へられる。

式内社調査報告



石船神社

石船神社は新潟県村上市 岩船三日市に鎮座しています。石船神社の創建は大化4年(648)に阿倍比羅夫(越国守・後将軍・大宰帥を歴任した将軍)が勧請したのが始まりとされます(案内板には同年に古代城柵である磐舟柵を築城した時すでに石祠があったそうなので創建年はさらに遡るのかもしれません。)。一説には饒速日命を祖神とする物部一族が磐樟船に乗って当地に上陸し開発したとの言い伝えもあり興味深いところです。大同2年(807)に秋篠朝臣安人(北陸道観察使、貴族、従三位、参議)が当地を訪れた際、越後国北方の鎮護の為、貴船神社(京都府京都市左京区)の分霊を勧請し合祀したことで社号を貴船大明神に改め、社殿を造営しています。石船神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社磐舟郡8座の筆頭として信仰を広め、中世は平林城主色部氏(神楽銭・御初物の寄進)、近世は歴代村上藩(藩庁・村上城)の藩主が崇敬庇護しています。特に天正8年(1580)に上杉家、寛永12年(1635)に堀丹直竒、元禄5年(1692)に榊原政邦、天明2年(1782)に内藤信敦が石船神社の社殿の造営や改修を行っています。正徳4年(1714)に正一位の神階が授けられ社名を本来の石船神社に戻し、明治5年(1872)には県内では青海神社(加茂市)と同じく2番目に縣社に列しています。石船神社の境内は聖域の為、人の手が余り入らなかった事から多くの大木、古木が見られ社殿の裏手に広がる社叢(ヤブツバキ群生地、その他、エゾイタヤ、クリ、カシワ、アベマキ、ミズナラなど)は昭和33年(1958)に新潟県指定天然記念物に指定されています。石船神社の例祭である「岩船まつり(毎年10月18日・19日)」は安土桃山時代の天正年間(1573〜1591年)から続けられている年中行事で古式を伝える祭礼行事として貴重な事から、名称「岩船まつりのしゃぎり曳行と「とも山」行事」として昭和63年(1988)に新潟県指定無形民俗文化財(民俗芸能)に指定されています。現在の石船神社の社殿は明治32年(1899)に再建されたもので入母屋、桟瓦葺、平入、正面向拝付。本殿は流造。祭神は饒速日命、水波女命(罔象女命)、高おかみ神、闇おかみ神。

社頭掲示板



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