天正年間(1573-91)までは船江神社・神明宮ともに1Kmほど北の寄居町周辺にり、各々が境内を持つ独立した神社であった。寛永15年(1638)頃に神明宮も汰江村(=寄居村)から現在地に移転した。明暦年間(1655-58)以降に同じ境内に2社が並立して建てられた。安政5(1858)に神明宮となり船江神社を合祀 |
神明宮 神明宮に合祀 式内社顕彰会北陸支部加盟神社 新潟総鎮守 神明宮 (合祀船江神社) 御由緒 当神社は天正年間(1573〜91)までは、船江神社・神明宮ともに各々が境内を持つ独立した二つの神社でした。明暦年間(1655〜58)以降に、同じ境内地の内にそれぞれのお社が並列して建てられ、「船江神明」と称されておりました。その後安政5年(1858)に現在のように合祀されました。 船江神社は、崇神天皇10年6月(西暦240ころ)に建立されました。当時、この里がまだ貝操といわれていたころに、海上より一隻の船が浜に流れ着きました。今まで見たこともない形の船でしたので、村人たちが周りを取り囲んでおりましたところ、船の中に一人の白髪の老人が座っておりました。村人たちが不思議に思い尋ねましたところ、「私は猿田彦大神といいます。この里を守護するよう使わされました。これより末永く産土神として鎮まりましょう。」とお告げになり、煙のごとく姿を隠されました。これに驚き、また大変喜んだ村人たちは、この船魂「猿田彦大神」をお祭するため早速お社を建立し、大切にお守り致しました。この時の船は新潟の船の起源とされ、また地名も船得郷と改められ、その後「得」を「江」に転じて船江大神と崇められました。延長5年(927)、延喜式神明帳に越後の式内社と記載され、神祇官から官幣をいただいております。 神明宮の創立は不詳でありますが、天正19年(1591)4月28日、上杉家より米四斗七升二合、社地二千坪の寄進と共に直江山城主兼 より真筆の「高天ケ原」額並びに黒印書を賜り、御師次太夫が神明宮の神職として任命されました。またこの黒印書の由来から、明治に至るまでの間、諸役が永年免除されておりました。 元禄年間(1688〜1703)のころから船江大神宮と称せられ始めました。 文政6年(1823)2月、神祇伯白川家と並んで全国の社家を統轄する吉田家より船江神社の社号を、また安政5年(1858)には、船江大神宮の社号を、栽司されました。明治元年に村社に列し、同5年3月、新潟総鎮守として全市民の氏子札を届けてあります。新潟縣初代縣令正三位永山盛輝真筆の社名額が奉納され、現在も拝殿に掛けられております。昭和2年、第25・28代内閣総理大臣若槻禮次郎氏よりの社名石柱が奉納されました。 当神社は古典にその社名をみることのできる新潟で一番の歴史を持ち、総鎮守として尊崇される神社です。 御祭神 ●猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 古事記によると「天の八衛(やちまた)に居て、上は高天原を光(てら)し、下は葦原中国をす光す神」として登場しています。これは天孫降臨のときに、天孫の一行にその行く手を教え導いた功績を賞め称えたものです。これから大きな意味では「国の行く先を示す神様」、身近かな意味では道の守り神として「悪いものを防ぎ、よき方への導きの神様(開運・交通安全)」です。猿田彦大神の信仰は道祖神(どうそしん)、塞の神(さいのかみ幸の神)の名でも行われています。 当神社では、神社縁起から産土神として「港の守り神」「船(進水・航海)の守り神」「漁業の神」「水の神」「防火・消防の神」の御神徳をいただいております。 ●大彦命(おおひこのみこと) 崇神天皇が地方征討のため、四道(北陸・東海・西道・丹波)に派遣された四道将軍(しどうしょうぐん)のお一人として北陸道を平定された神様です。温古の栞(天明4年1784)に船江大神は大彦命を祀り、北陸道の人々の崇敬すべき神社とあり、「北陸地方全域の産土神」であり、「交通安全」「諸事解決・平定」の神様です。 以上の二柱の神様は船江神社建立当初からの神様です。 ●天照大神(あまてらすおおかみ) 伊勢神宮内宮にお祀りし、全国の家庭の神棚に御神札「神宮大麻(じんぐうたいま)」としてお迎えし、私共をお守り下さいます。 伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が、黄泉(よみ)の国の穢を祓うための禊(みそぎ)で、お生みになった三貴子(天照大神・月読神つきよみのかみ・建速須佐之男神たけはやすさのをのかみ)のおひとりで、伊邪那岐大神は天照大神に「汝が命は高天原を知(しら治)せ」といわれました。すべての命をはぐくむ「日の神様」です。 ●豊受大神(とようけのおおかみ) 伊勢神宮外宮にお祀りし、お米をはじめとして私共に欠くことのできない「衣・食・住の守護神」です。 この神宮二柱の神様を合わせてお祀り致します。 境内社 八幡宮 九州宇佐八幡宮が本宮。応神天皇を御祭神としてお祀りしています。 八幡信仰のひとつの面から、源氏の氏神でもあります応神天皇の武神としての「弓矢の神」「鍛冶神」の御神徳による「武芸上達」、刀鍛冶・刀剣研磨に携わる人をはじめとして製鉄業関係者の「鋼の守護神」として信仰されています。 八幡信仰のもうひとつの面では、応神天皇・神功皇后は共に、大陸交渉に伴って、大陸の文化を我が国に輸入し、日本の文化興隆をはかられた御神徳により「学業成就」「合格祈願」を、また応神天皇は神功皇后の御子で、両神は母と子の関係であり、母が子を抱きかかえて大切にし、自分の御子神(応神天皇)を目分の替わりとして、この世に下されたことからの「母子神(ははこがみ)信仰」が起こり、「家内安全」「家庭円満」「家名隆昇」「子宝神」と崇められています。 特色 扇垂木(おおぎたるき〕 社殿の大きな特徴として垂木があります。拝殿(はいでん)中央から垂木が放射状にのびており、大変珍しい建築様式となっております。 船絵馬(ふなえま) 一般的に絵馬は、馬の絵や十二支が描かれていますが、この船絵馬は船の縮尺模型が板の上に作られたものや、板の上に直接絵の具で描かれたものなどがあります。当神社には湊町新潟の、また神社縁起にふさわしい船絵馬が大切に保管されています。 芭蕉の句碑 松尾芭蕉の「泊船集 付録」に納められた名句「海に降る雨や恋しきうき身宿」を、安政4年(1857)に地元の俳句会「柳々舎」から献碑されたものです。 和歌扁額 天領初代新潟奉行川村修就真筆の和歌が、幣殿に掛けてあります。 社頭掲示板 |