氏子数は明治16年に27戸。しかし当社では、祭礼や社殿の修繕等は一切宮司の鈴木家が行ない、氏子の意識は強くない。鈴木家の私的神社という位置付けである。従って氏子数というとらえ方ではなく、崇敬者でとらえている。 鈴木家は代々世襲で、遠祖長野麻呂から数えて65代以上という。 社伝に「長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年8月15日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て旦飯野神社と号し奉祭。」 北蒲原郡笹神村の旦飯野神社(もと山浦八幡宮)を中山神社に比定する説もある。しかし神社自体は中山神社を唱えていない。 |
由緒 延喜式内社旦飯野神社記 一、祭神 誉田別命 二、由緒 長野麿(神官の大祖)なるもの応神天皇の御弓、衣、石を斉祭、仁徳天皇御宇元年8月15日大山守皇子へ貢米奉る、此時に角鹿笥大神、飯津神を奉祭すれば汝の里に百姓に種物出来るとの御教に因て旦飯野神社と号し奉祭、仁徳天皇御宇より永正まで四度造営、永正3年5月20日造営又享保4年10月元宮と称す地に造改、寛政4年3月(1792年)本宮地へ奉祭造替て現今に至る、明治4年12月第廿四区郷社の許可を受く、同6年2月10日第廿四区村社の改号を受く、その後区改正に付廿二区小三区村社又郡区に付社格は村社と称す、元亀前上杉公の臣家笹岡旧城主山浦国清、今井源右衛門両殿の崇敬社と被定候、祖先より子孫次々38代藤原朝臣儀形まで官位ありて神勤せり40代儀形の子儀定寛永17年4月16日(1640年)に神道吉田流(京都)より神官の許状を請此より後代は皆吉田殿より許状を請たり、祖先より子孫代々(小職65代)山浦神主と名のり四時祭式を怠たる事無く神明に奉仕致し居り(越後野志記、神職文化中マデ代オ重メル事54世相続キ絶エズ)社の峯に新池古き泉水あり、北隅に神遊苑と称する所ありしが今草木茂りて荒廃せり(元馬場跡)大門、鳥居前は北陸道、南方は菱ケ嶽、東方は出湯の湯、後方は五頭山に当り、社地老樹森々として枝を交へ鷺は群り住居して風致極めて清雅なり(越後野志記、社地方八町許山林松杉老樹繁茂シ実ニ神サビタル霊地也) 祭典は旧暦正月15日、7月15日、8月15日且つ8月15日は甘酒祭りを行う(安政年間まで) 7月15日は農耕馬による奉納競馬を遠くは中条、黒川方面より出走して行い大変な賑わいとなる(昭和35年7月15日まで) 尚寛保3年(1743年)山浦八幡宮霞氏子帳には当時各部落氏子名記あり(一部新村は記載なし) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
旦飯野神社 延喜式内旦飯野神社 越後国蒲原郡白川荘山涌郷宮下村に誉田別尊(応神天皇)を御祭神として奉斎する。 長野麿と申す者、応神天皇の御弓、御衣、御石を奉斉し、またの名を山浦八幡宮とも称する。御神体は衣冠単の正装に弓を奉持し、矢を背負う立像、その立寸は凡そ35cmの白木造りである。また自然木で弓の形を整へしもの御神体と共に有する。 仁徳天皇元年8月15日に大山守皇子へ貢米(山浦氏の収穫せし初穂)を奉りしとき、角鹿笥飯大神、饌都神を鎮祭すれば汝の里に「百姓亦種物豊饒す」と云う御神託により旦飯野神社と奉称して敬神の誠を致せり、御社殿は仁徳天皇の御宇より寛政4年まで七度造り替へられ現在に至る。 神社の峯(山浦城址)には古き神池、泉水あり。大門(随神門)大鳥居前は北陸道、南方に菱嶽、束方には出湯の里、後方は五頭山に当る。 越後野志には、所在不詳なれど白川荘宮下邑山浦神杜をこれに充、祭神は八幡大神、社地方八町許山林松杉老樹繁茂し、実に神サビタル霊地也り。神職文化中まで代を重ぬる事54世、相続き絶へずと記述されている。明治4年の民政御役所に差出しの旦飯野神社境内地調ベには、社地積140間縦81間、松木目通り七尺八寸〜三尺五寸まで57本、杉木目通り一丈二寸〜三尺五寸まで265本、右代金345両と記るされている。神社祭礼祭祀、運営、緯持管理等の経宝捻出のため多くの社木を伐採し、社有地を処した。大正9年の記録には伐採木の運搬に信濃國より馬六頭、馬車三台が当り丸太を幾割にも切割して搬出した。 山蒲氏を長として荘園は栄え、民人の結束と「長」としての位を広く知らしめんと、自ら斎主(神官)となって祭礼祭祀を執り行ったことにより、山浦八幡宮とも称した。後年村上、笹岡各城主の篤い崇敬を受けた。また武神即ち開拓、開発神と崇める誉田別尊を御徴として民人の先達となり開墾を進め、更に農耕に励み山浦郷を拡大し、勢力と権力の増長を計り、氏子の増大を進めた。 その勢力の程は古文書にもみられる通り、百余座(集落)にも及ぶ、衰退せし現世は40集落と成るも一神職として治むる数は県内に在って量も多く所持している。 神職代々例祭の祝詞の前文には必ず「越後国薫原郡白川荘山浦郷宮下邑乃長峯 底津磐根、宮柱太 立千木高知神饌 瑞御社殿飯野神社亦乃名神山浦八幡宮 称奉。大神誉田別 大前 常 仕事 山浦神職 云々」と奏上し、神官位には「藤宝原諸馬臣山浦神諸社家口代鈴木筑後守や上野守、因諸守ロロ」と書されているもの多くみられる。又菊花紋宝を片故に限り許るされ、現在は提灯に使用している. 廷喜5年諸集に着手し延長5年に完成された、廷喜式神明帳に式内神社の小社として、蒲原13座の一社に列せられる.(区内総数132座、越後國総数56座) 旦飯野の字名の由来、「旦」アサと読み始めての日、ときを現わす.「飯」イイと読み米、ごはんを現わす。「野」ノと読み田焔、野を現わす.依って山涌郷に始めて米卸ち稲つくりを行い広めた所、豊饒の野にご飯を豊かに盛り高なせしより良い所と解せる. また郷内外の氏子より、夏から秋ロの夜中に旦飯野神社の森に、天から20〜30cm位のオレンジ色をしてトロ、トロと火の玉のようなものが、ゆっくりと下りたのを見たと云う人近年まで幾人もある。中国の古書に「神霊の宿る所に燃ゆる玉が下りる云…、それ「テントウ」と云う」と書される.当神社には「金のチャボ」の御神体がもう一体あり、先の神仏混交を云われし頃神主と氏子一人が手伝って境内地に埋め祭ったと伝ヘられている。手伝った氏子が今の神主の先代に次第を告げるも、場所は口外許せじと教へずに他界した、その御神体に「テソトウ」が下りるのではと想われている。 また山蒲神主から木札(身分証明書)の発行、山浦郷内の寺院よりの亡人届書などもみられる。 今に四時祭礼、祭祀を休すらう事なく斎行され、現神主は65世と相続いている. 〈注釈〉廷喜式、三代格式の一つで完全に現存する唯一のもの、弘仁式、貞観式の二式及びその後の式を集大成し漢文で記述した諸制度の書藤原時平が醍醐天皇の命を受けて廷喜5年(905)に紀長谷雄、三善清行らと共に編集に着手、途中時平亡きし為め弟の忠平が継続して廷長5年に完成.平安時代の諸制度度の根本史料. 旦飯野神社私考 宝木諸一 仁徳元年8月15日と云いますと、西暦紀元391年、今を去るまさに1600年の昔になります。 大和朝廷の続一が成り、朝鮮半島南端に任那日本府が成立したのが350年。彼の地に於て今、日本製の銅鏡、銅矛の発掘が伝えられています。 紀元前291年、万里の長域を築いたとされる中国の奏の始皇帝が、不老長生の仙薬を求めて派遣したと云われる徐福が、童男童女500名の集団を率いて中国を出発したとの記述があり、日本に於ては青森・秋田から離島八丈島までこの徐福伝説があって、中でも和歌山県定住の伝説が色濃いと云われていて、往古中国の目に映じたユートピア日本の姿をうつしていると思われます。 百済の聖明王から献上された仏典を携えて王仁博士が来日したのが538年。 阿部比羅夫の北伐は1300余年の昔。この頃既に大和朝廷が北方平定に将軍を派遣しなければならない程、地方豪族が力を持っていたことになります。 旦飯野神社の伝えられる創設の頃は、まさに文事、武事斯くの如くでありまして、鈴木宮司の述べられる如く、民人を養い、開墾を進め、農耕に励んで地方豪族としての勢力増大につとめ、朝廷である大山守皇子に貢米を献上する地歩を占めていたものと推察されるところです。 御神託により、応神天皇である誉田別尊を祭神として斎り、自ら神杜を創建し、齋主(神主)として祭祀を執行し、里人を氏子として、祭祀の費用を氏子に負担させない、豪族としての神主の在り様は、全く世の常の神社とは異質のものと云えましょう。 神社の後方、五頭山では、816年弘仁7年高野出に弘法大師(空海)が金剛峰寺を創られる以前に、同空海が開いたとされる五頭山福性院海満寺の創建が伝えられ、山嶽信仰の中心として殷賑を極めた様子が偲ばれるところでありまして、山の幸、里の畳饒に裏打ちされた笹神村の豊かさがまざまざと思い起こされます。 武家の台頭から源平の世となり、1192年建久3年源頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、全国にその一門を配置するところとなり、その先年1186年文治2年に伊豆大見氏が白河荘地頭に任ぜられている記録があります。 山清郷がいつの頃からの呼称かわかりませんが、1283年弘安6年に「山浦四ケ條」の譲り渡しの文字が見えます。(條はところを表わし、水原條とか舟江條とかであります) 考えられることは、この時既に旦飯野神社創建から約800年も経っている訳で、鈴木神主の祖先である豪族は賢明にもこの新興勢力と争わず、自分は一歩引いて神主として旦飯野神社を守り、社殿を宮地(宮下)から民地(宮下)に移し、移住者をそれまでの自分の居館に迎えたのではないでしょうか。 移住者(新勢力)はそれを徳として、鎌倉武人の信奉する鶴岡八幡宮の流れである八幡宮を祀り、山浦八幡宮と呼称して、旧豪族の協力を得ながら、旦飯野神社とともに信奉したのではなかったでしょうか. この勢力が退潮してこの地を去ったとき、再び民地から旦飯野神社を宮地に移して、八幡宮と合祀したのではないかと思われるのでありまして、神社が一時、下にさがっていたとの云い伝えがそれを実証しているようです。 廷喜式内社に列せられたのは905年ですから、創建から500年を経過しています.その由来、格式、地方豪族の信奉、と申し分のない所であったでしょう。八幡宮は恐らくそれから3〜400年後のことであったろうと思われます. 以後代々の神主が、その代々祝詞にあるように、「旦坂野衿社またの名を山浦八諸宮」と併称していることは、このことを表わしていると思います. 室町幕府治下における執事、又は管領上杉傘下筆頭に位置する、山浦殿と呼ばれた武将の居館であったかどうかは別にして、神社は神主の識見、格式と氏子里人に支えられ、且つ武将の大きい庇護の中にあり、村上、新発田の武将の尊崇も厚かったとのことでありますが、中条・黒川から安田・阿賀一円にわたって大きな存在であったことは紛れもない事実のようであります. 農耕の奨励として、競馬にあっては、馬匹の改良もさることながら、馬を大切にする為の施策とも考えられ、米の改良増進の方法として甘酒(実は湾酒か?)の振舞いなど、弥彦神社にも比肩する、いやそれ以上の民力養成の柱ともなったようです。 実際にあった、いや今もあるかも知れない奇象として、てんとう(天燈か?)があります。夜、天から「あかり」が神社の上に下りてくるというもので、水原の若衆が何人もでその正体を見る為に走って来た話や、上山田の濠辺さんが、その自分の目で見たお話を娘さんに田かされたことを耳にしております.神社の宝物が埋められている所に下りるのでは、と古老と一諸にそれらしい所を掘ったが見付からなかった、とは神主のお話です。 由緒書 |