矢津八幡宮は、征夷大将軍で蝦夷征伐を行った、坂上田村麻呂が大同2年(807)、東夷征伐の際に戦勝祈願のため勧請したと伝えられています。 |
矢津八幡宮 矢津八幡宮 祭神 誉田別命 息長足比売命 玉依比売命 由緒 大同2年 坂上田村麻呂東夷征伐の折り、戦勝を祈願し正八幡を勧請して従五位の上兵部大夫広継をして之を守護せしむ。 天喜5年 阿部貞任一族奥羽に反乱し、源義家勅を奉じて征討の途次戦勝を祈り願文を捧げ凱旋するに及び朱印の地を寄進す。 寛文元年 村松藩主堀直吉封内式社に列し社殿を改造す。即ち現存のものなり。 往古より菅名庄の総鎮守にして旗立明神とも称せられしは義家弓箭を奉納せしにより此の地を矢津と称するに至る。 社頭掲示板 |
八幡宮本殿 新潟県指定文化財 八幡宮本殿 所在地 五泉市矢津1896 指定年月日 昭和61年3月28日 矢津八幡宮は、征夷大将軍で蝦夷征伐を行った、坂上田村麻呂が大同2年(807)、東夷征伐の際に戦勝祈願のため勧請したと伝えられています。この八幡宮は古くから菅名荘の惣社とされていました。 中世時代の矢津村は荘内随一の川港であったため、中世武士の争奪地となり、八幡宮は戦乱で次第に衰退していきました。 しかし、江戸時代になると、村松藩は廃絶寸前にまで衰微した同社を再興し、村松藩五社の一つに加えて優遇しました。寛文元年(1661)、村松藩2代目藩主・堀直吉が社殿を造成しており、その時の棟札が現在でも残っています。 矢津八幡宮は、江戸時代には武人の守護神として崇敬されました。 また、村松地方の八幡宮は十二社、熊野社と同様に山の神であり、作神としても信仰され、牧村の山ノ宮、上野村の里ノ宮と称する社もありました。 本殿全体の木柄は太く、軸部や妻飾りなどは江戸時代初期の形式をよくとどめており、江戸時代初期の建築様式を今に残す貴重な建築物として、昭和61年(1986)に県の有形文化財に指定されました。 2009(平成21)年5月五泉市教育委員会 社頭掲示板 |