本来は八木大明神と守門大明神の二社相殿。八木神社はかつて八木ヶ鼻山頂に祀られ、八木・守門大明神と称していた。勧請開基は大同2年(807)といわれ、現在地の本殿は万治元年(1658)に、拝殿は明和5年(1768)再建。 |
八木神社 勧請 神域である八木ケ鼻は、すでに原始の頃に神霊の降臨があって、崇拝の対象とされ、その頂上には、かつて一社が建立されていたという。 また、麓の岩窟からは縄文式遺跡も検出され、生活の痕跡を見ることができる。いっぽう、五十嵐川対岸段丘上の「御渕上遣跡」は岸壁の真向いで、先人たちの生活と信仰を物語っている。 大同2年(807)、「八木大明神」と「守門大明神」が二社相殿でまつられたと伝えられている。 御祭神・由緒 ・八木大明神 倉稲魂命(食物稲作の神) ・守門大明神 豊磐間戸命、櫛磐間戸命(門戸守護の神) ・新田義貞、義顕、義興、義宗(新田父子四朝臣の命を南北朝後に合祀) ・大山祇命 (昭和45年、吉ケ平集落閉村により大山祇神社を合祀) ・高雨龍命 (同上、雨生神社の祭神) ・誉田別命 (昭和55年、大谷集落閉村により大谷神社を合祀) ・天照皇太神(昭和55年、大江集落閉村により神明社を合祀) 八木・守門について ・「八木」は米の字に通じ、食の神である倉稲魂命を主祭神とする八木大明神がこの地に祀られた。 ・「守門」は、門戸を守護する神である磐間戸命の神威を表し、この郷の中心地に位置する八木ケ鼻に鎮座されたものである。邪鬼の侵入を防ぎ、郷内の安全と平穏をつかさどる守護神である。 当地では「守門岳」と符号するが、「巣守神社」とは、御祭神がまったく異なっている。 新田氏と八木神社 新田義貞が足利氏との戦いで越前藤島にて戦死後、遺児で四男の義宗は、越後勢を頼りに最後まで転戦したと伝えられる。その戦跡は粟岳山麗一帯に及び、当社地にもゆかりが深く、崇敬の念厚く、新田義貞父子が八木神社に合祀されたのである。 本殿には新田父子四神像が安置され、新田氏の紋所である「丸に一引両」が当社の神紋となっている。 また、境内には天保九年(1838)、新田氏の後裔である源(新田)重基卿が当地にて詠んだ歌碑が、文久3年に当地の有志によって建立されている。 雨生(まごい)の信仰と大蛇祭 ・旧吉ケ平の雨生ケ池(まごいがいけ)は、江戸時代から大蛇伝説と雨乞い信仰で広く知られていた。大蛇の嫌金物を一切使わなかった雨生神社も今は無いが、そのご祭神は吉ケ平の鎮守様と共に、そっくり八木神社祭られている。毎春各地から雨生のお札を受けに参拝者が訪れている。 平成10年夏、下田ふるさと祭り“雨生の大蛇祭”行列が開始され、八木神社で発進祭の後、おおにぎわいの中行進した。 由緒書 |