宇都良波志神社はもと五泉の市街を東西に流れる白山川の川辺にあり、白山神社と称していた。宝暦9年(1759)に八幡宮の隣地に移り、明治7年八幡宮に合殿された。 一説には、八幡宮自体が宇都良波志神社の論社だとする。ただし、八幡宮では、式内小布勢神社であると主張している。 |
五泉八幡宮略記 五泉八幡宮略記 神祭神 誉田和気命(応神天皇)気長足姫命(神功皇后) 田心姫命 湍津姫命 市杵島姫命 御創祀 元慶3年(西暦879年) 鎮座地 新潟県五泉市宮町5番46号 境内地 約3000坪 本殿11坪 祝嗣殿 27坪 拝殿・神饌殿・伺候殿32坪 由緒 創祀縁起を社記によれぱ、人皇57代陽成天皇の御宇元慶2年3月出羽国にて、俘夷叛き秋田城及び郡院民家を焼き、津軽城を襲う。出羽国の国守正五位下藤原朝臣興世、叛虜と戦いて敗れ、駅を飛ばして上奏す。朝廷右中弁藤原朝臣保則に勅して、東夷徒伐の宜旨を下し、4月4日保則を出羽国権守に任じ叛夷を討たしむる。 保則勅を奉じて北陸道を下向し、越国五泉にいたる。時に5月18日より烈風雷雨連日休まず、水氾濫して道を矢い、官軍進むこと能わず。数日虚しく停留す。保則の平素尊信するところの八幡大神の加護を祈り奉る。時に雷鳴止み、天乍ち晴れ、瑞雲紫気南より北に靡きて快く晴る。6月2日羽州に進発するを得たり、保則大いに戦いて7月10日捷報を奏す、翌3年正月梟財悉く降る。 3月平安に凱旋し保則復命して八幡大神の神徳赫灼たるを奏し、関白藤原朝臣基経公に石清水八幡宮を以て、越後国五泉に勧請し神恩に報ぜんことを請い許容を蒙りて、某の代官をして当地に創祀せしめ、奉幣を下し藤原朝臣修理吉道をして之を斎き祭らしむる。 と在るのが当宮の創祀創立の縁起由来でありますが、その後のあらましとしましては、貞治5年足利義詮公の命により上杉民部大輔憲現公が越後国を賜わり、その侍臣数馬を五泉に受け永徳2年城塁を築きて拠守する。数馬は八幡宮の美麗整然たるに驚きて篤く信奉する。 その後五泉拡は鉄駿守・天野東山・中野玄正・矢代豊後守等が拠守した。永禄5年官領上杉輝虎は、五泉城主甘粕備後守清長に命じ八幡宮を再営せしめ領国の鎮守となす。 慶長3年3月権中納言上杉勝景は会津城に移り、五泉城主清長も此に従がいて奥州白石に移り館跡となり村上領となる。正保2年3月八幡大神の夢に当時の神官近藤王佐守吉次と言う者に告げ「今の宮所は万に便悪しきが故に、甘粕が標し城跡に遷らまく、速かに遷すべし、宿駅自から繁昌すべし」と告げ賜えるに覚め、この託宣を城代森九左衛門に告る。森氏も同じ夢を見速かに村上城主本田能登守忠義侯に告ぐ、侯も具に東都に問う。正保5年一許を得森九左衛門を奉行とし、1500人の人夫をもつて館を解し土手を崩し地を均して神地に給わり能登守より元三貫の御朱印書を下し置かれ、神官土佐守には廓内の槍間を給わる。慶安2年8月15日高宮美麗に竣工し、宮腰の地より現在の八幡宮へ遷宮鎮座され。 明治元年10月14日戊申戦争の会津鎮定に新発田城より兵部郷仁和寺宮・西園寺宮・壬生宮等が杜参され戦勝を祈願され錦の御旗を奉納され神官従五位下近藤加賀守吉宜も方義隊を結成し従軍する。これにより明治3年9月兵部省より金五十両を給わる。 明治7年白山神社を合祀する。当時の境内には摂末社二十社が整然と立並び老杉が鬱蒼と生繁り、郷内はもとより村松からも一望されたと伝えられるが、昭和3年8月3日五泉町大火に於て一切を焼失する。 同年11月15日仮宮を造り、避難所吉田久平邸より遷宮され、同9年再建奉賛会を結成したが、大東亜戦争のため中絶、同35年11月3日第二次奉賛会により現在の拝殿を造営竣工し、本殿を同52年6月15日造営竣工された。 末杜は、火災後八幡宮に合祀合祭され、現在では、服部神杜・水神杜・古峯神杜・稲荷神杜・青麻神杜・天満宮等が復興されている。 服部神杜は、”はたがみさま"と言われ、五泉市の繊維産業の祖神様として知られ篤く信仰されている。従来大祭日は8月1日に斎行していたが、明治35年5月25日東宮殿下(大正天皇)は、有栖川宮織仁親王と織物講習所に来訊されたのを記念して、明治38年より5月25日を例祭日と改め毎年盛大なる祭典が織物組合を挙げて斎行されている。 桜発花之下蔭 分昏天逢人稀爾 成耳開留可那 文政庚寅春三月子 笑木辺歌之人 廣海 此の歌碑は境内の一隅にあり、昭和45年1月10日に五泉市の文化財に指定されたものです。大江廣海は五泉に生まれ江戸に行き村田春海を師とし、公郷の間に交遊し家塾を開き書・和歌・詩文等を教え、天保5年京都で没す。 桜発花之下蔭 分昏天逢人稀爾 成耳開留可那 文政庚寅春三月子 笑木辺歌之人 広海 大江廣海 江戸時代における、越佐出身では唯一の国学者、歌人であった。『本朝古今新増書画便覧』では「大江廣海 字ハ景迹 号ハ鴎居 通称県斎後靱負ト更ム、越後人、京師二住ス、春海門人、和歌ヲ能ス、又書ヲ能ス」とある。廣海は、明和6年(1769)三ツ郷屋の農家の次男で幼年期に、二ッ柳の医者坂口友伯の手伝いをしながら読み書きを学び、後に村松の加藤北溟に儒学を亀田の僧慧本に王義之などの書を学び、28才のころ江戸の国学者村田春海に入門し、勉強熱心で能筆を認められ春海の後継者となり、春海の和歌「琴後集」の出版に尽力した。 文政3年京都へ移り賀茂神社の社家真淵の門人たちと親交し、家塾を開き古今集を始め書歌、漢詩を公郷に教え、門下人近畿四国に200余名におよび、4才年下の和泉圓は竹馬の友として交友が厚かった。 廣海は、天保5年6月23日66才で病没(1834)墓は京都左京区の浄土宗専念寺に、鳥辺山墓地(東山区鳥辺山)に葬られていたが無縁墓となり、昭和46年6月「広海会」により粟島公園に移された。 八幡宮の歌碑は、明治6年三九回忌が催され、廣海の追福会により建立されたと伝えられる。昭和45年1月14日五泉市の有形文化財(書跡)指定。(五泉市史より抜粋) 社頭掲示板 |