蒲原神社
かんばらじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】青海神社 2座 越後国 蒲原郡鎮座
          (旧地)蒲原神社【旧地】金鉢山

   【現社名】蒲原神社
   【住所】新潟県新潟市中央区長嶺町3-18
       北緯37度54分52秒、東経139度4分10秒
   【祭神】椎根津彦命 埴山姫命 水波廼女命 久久廼知命 金山彦之命 迦具土之命
       (配祀)天照大御神 建御名方命 日本武命 菅原道真

   【例祭】4月3日 春季祭・菅公祭 10月10日 秋季祭・敬神会
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年月不詳
       元禄3年(1690)信濃川の川欠により現在地に移転
       明治6年村社
       明治22年造営
       大正11年郷社
       昭和58年蒲原神社と改称

   【関係氏族】氏
   【鎮座地】社殿はもと蒲原ノ津、金鉢山にあつた
        元禄3年(1690)信濃川の川欠により現在地に移転

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「五社神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・神樂殿・社務所

   【境内社】

平安時代には越後唯一の港として、当時の阿賀野川河口の蒲原の津、郊外の金鉢山に鎮座した。


由緒

参拝のしおり
平安朝の昔、椎根津彦命の後裔が越後国蒲原郡に封ぜられ、蒲原の津(港)に土着して、蒲原郷の総鎮守を創設し郊外の金鉢山に鎮座した。日本海の青い海を眺望する影勝の地に位していたので青海神社と言い『延喜式』に青海神社二座と記載されている。式内社が本社の前身であった。
本社は鎌倉時代まで栄えていたが、南北朝時代に下越後の南朝方が蒲原の津を根拠地と定め、金鉢山に蒲原津城を築いたので、本社は否応なしに南北戦争に巻きこまれ、その結果北朝方の完勝で戦争が終結した時、本社は敵側の神社として廃滅処分され、その神官も全員追放処分された。神官たちはその後中国伝来の五行の五神を祀り「五社宮」と称して辛うじて生き残ったと推考される。
戦国時代末期に新発田重家が信長と結んで上杉影勝に背き越後の覇権を争った時、金鉢山に青海神社の生残りがいることを知り、その社殿を建築してやり、自らも新社に参詣して戦勝祈願文を奉納し、社領十町歩と太刀等を寄進し、在世五年間に五社宮に種々貢献したので、廃社寸前の神社は摂社末社四十余社を支配する神社に復興することができた。
その後江戸時代初期には、数十年続いた稀有の大川欠け災害に遭遇し、蒲原村も金鉢山もみんな流失し、五社宮は山ノ下の台地に避難紺困窮の末、元禄3年(1690)藩主の救助により新生の蒲原村(現在地)に再度復活し、明治の御代に至った。明治維新政府は神道を国教と定め、神社制度を制定して本社の正式社名を「五社神社」と改めて現在に至ったが、昭和58年、現宮司は昔から里人が蒲原の神社と呼び習わしてきたのをとり、「蒲原神社」と正式に改正して現在に至った。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



蒲原神社

蒲原郷総鎮守
蒲原神社
新潟市長嶺町3番18号鎮座
蒲原神社由緒略記
・御祭神 埴山姫之命(はにやまひめのみこと)=火の神
 水波廼女命(みずはめのみこと)=水の神
 久々廼知命(くくのちのみこと)=木の神
 金山彦之命(かなやまひこのみこと)=金の神
 迦具土之命(かぐつちのみこと)=土の神
合祀神
 天照大神(神明様)
 建御名方大神(お諏訪様)
 日本武命(古峰様)
 菅原道真命(天神様)
 畠山六郎夫妻の木造
御祖神
 椎根津彦命(しいねつひこのみこと)
・祭礼日 一、 1月1日   元旦祭
     一、 4月3日   春季祭、菅公祭、梅まつり
     一、自6月30日至7月3日 蒲原大祭
     一、10月10日秋季祭、敬神祭
     一、自11月8日至11月23日 菊まつり
     一、11月23日  新嘗祭
     一、12月31日  大祓祭、除夜祭
     一、毎月1日朔日祭
     一、毎月15日月次祭(六郎会)
・ご由緒
一、青海社(おおみのやしろ)と五社神社
蒲原神社は、創立1200年以前と推定される由緒の古い蒲原郷の総鎮守です。
平安時代には越後国唯一の港として、当時の阿賀野川河口にあって栄えた蒲原の津、郊外の金鉢山に鎮座し、日本海の青い海を望む景勝の地に位していたので、社名を青海社(おおみのやしろ)と言い「延喜式」と言う「神明(名)帳」に記載されている(式内社)のが前身であります。御祖神は神武天皇に仕えた椎根津彦命(しいねつひこのみこと)です。
この青海社はその後前記五体の御祭神も祀っていたことから、いつか社名も五社神社と呼ばれ公称となりました。
昭和56年に1200年以上、蒲原の地に鎮守し「蒲原様」「蒲原祭」の名で親しまれてきたので「蒲原神社」と正式に改称いたしました。
一、六郎様とお託宣
今から約800年程昔、鎌倉時代になって畠山六郎重宗と言う人が神主になり、7月1日の大祭に、その年の作柄の豊凶を占うお託宣を始められたのであります。これが今日まで受け継がれている蒲原神社のお託宣の始まりであります。
畠山六郎重宗夫妻の没後、里人達は重宗が生前自から彫った夫妻の木像を神として五社神社に合祀し、これ以後蒲原の六郎様とも称するようにもなりました。
一、神社と祭の変遷
平安時代から鎌倉時代までは、この蒲原の津と共に神社も祭も非常に賑わったと伝えられております。
その後長年月にわたりこの蒲原の津も、南北朝時代の戦禍と阿賀野川の川欠け、信濃川の土砂で地形が次第に変って来、港が埋まり蒲原と言う所も港から東に離れた所に移り変って来ました。
信濃川は上流から流出する土砂により新しい新潟と言う土地が広がりつゝあり、沼垂・蒲原の里は阿償野川の川欠けと共に二転三転と所を変えて衰頽するのですが、現在の場所に神社が鎮座したのは元禄3年であります。
一時は町も神社・祭も衰頽の一途を辿りましたが、元禄時代になると新潟の町、沼垂・蒲原の町も開け、蒲原祭も賑やかになって来ました。
祭になると農家は、仕事を休み、村も町も笹団子・チマキを作り祝います。
只、栗の木川を舟で来て寝泊まりして、お託宣を聞き、一喜一憂して帰り、農作業に励んだのです。
以後今日迄、蒲原大祭は人出の多いこと、出店の多い(六百店余)ことは、県下は勿論、北国でも、一、二を争う庶民の祭として盛況を見せております。
現在は、御祭神の天神様にちなみ、八十余種、約百十本の花梅の木も植えられ、梅まつりも行われて梅の名所、梅の神社としての名も広がっております。
一、兼務神社 四十七神社
蒲原神社
中興十六代 宮司 金子隆弘

社頭掲示板



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