越後国の国司として中央より派遣された貴族猪名真人大村卿(いなまのひと)が、大阪市住吉の住吉大明神を柏崎の地に奉遷した。 創建当初は「住吉大明神」と称していた。 |
由緒 石井神社の由来 越後国の国司として中央より派遣された貴族猪名真人大村卿(いなまのひと)が、大阪市住吉の住吉大明神を柏崎の地に奉遷した年月は不詳ではありますが。 慶雲2年(705)に北夷征討鎮護の祈願を行い、又慶雲3年(706)には旱魃甚だしく、農作物は勿論人畜にまで影響するに至り、雨乞いの祈願をしたところたちまち、霊顕著しく篠つく雨が降ったという事であります。宝亀9年(778)勅令により大祓が執行されました。今尚続いている当神社特有の輪くぐりの神事は当時の古式に依るものであります。 延暦8年(789)、強震により社地陥没し、翌年石井の岡に遷宮しました。之が現在位置の石井神社であります。創立の際は住吉大明神と称したのでありますが、石井の岡に遷宮したことにより、地名に因み氏子は石井神社とも称するようになりました。延喜式神名帳に御記載ある石井神社が即ち当社であります。 延暦12年(793)、坂上田村麿東夷征討の途次特に参篭して凶賊の殲滅を祈り、祈願文を奉納せられたのを始め武将の参拝多く、元亀年間(1570〜73)には上杉謙信佐渡征伐の途次海上御守護の御神である当社を参拝して奉幣並びに木製の獅子一対奉納せられました。 宝暦元年(1751)4月、社殿類焼し獅子一対の外は、悉く灰燼となりました。文政7年(1824)4月、再び社殿炎上。明治13年(1880)8月、三度炎上。此の時の大火災を酢屋火事と称し、842戸焼失しました。之は当時の柏崎の戸数約1860戸の半数近くが罹災したことになります。 明治16年(1883)4月、用材は桧材とし、本殿屋根は銅板ぶきとして造営の工を起こし、同年竣工しました。大火のあとわずか三年後の復興は明治時代の氏子の神社に対する信仰の深さをまざまざと感じさせるものがあります。 石井神社の祭神は、住吉大社と同じく、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)の三神で、住吉神社は他に神宮皇后が石井神社には息長帯姫尊が配祀されています。記紀神話によれば、イザナギノカミがなくなられたイザナミノカミを訪ねて黄泉(よみ)の国へ行き穢れを受けて逃げ帰り日向の国で海中に入って禊をした時に生まれたことから、三神は、祓の神、海の神、歌道の神、国家守護の神として信仰されています。 昭和30年(1955)9月18日に1250年祭が執行されました。従って、慶雲2年(705)を以て創立の年としていることになり、平成17年(2005)が1300年祭に当たります。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |