もとは鵜川神社と鵜川八幡社とに分けられており、別々に造営されていた。応安元年(1368年)に宇佐美祐益が伊豆の国から琵琶島城に入って以来、当社が城の東北に当たるため鬼門と称しあつく信仰された。 当初、八社大神・八幡大神と併称して二殿を祀ったが、後に現社号に改称したという。 |
由緒 鵜川神社案内 一、歴史 御遷座は811年。醍醐天皇の命により平安朝の始めの延喜年間に書物が編さんされました(完成927年)。その本の内容は、当時の諸制度や建造物に至るまで記されました。その中に当社が入っており、遷座が弘仁2年(811年)、桓武天皇当時とあるところから推定されます。 二、現在の社殿以前と琵琶島城とのかかわり 鵜川は昔、鵜川神社と鵜川八幡社とに分けられており、別々に造営されておりました。そしてこれらのお社は応安元年(1368年)に宇佐美祐益が伊豆の国から琵琶島城に入って以来、当社が城の東北に当たるため鬼門と称しあつく信仰し、武将の守り神として丁重に扱ったのです。参道の関町口の方は馬場としても使用していたようです。(鳥居馬場)もちろん当時は戦乱の世、兵火(放火を含む)にもさらされ天文2年(1533年)の秋には僅かな宝物を残して焼失、更には天文4年(1535年)の落雷?により宝物・記録がことごとく消えてしまったのです。そしてその後、再興はされましたが完全にもとどおりの社殿には至らなかったのです。 三、現在の社殿 多くの人々の信仰心と篤志等により、文化6年(1810年)に本殿が、そして翌年には拝殿が完成し二社を合併して「鵜川神社」となったのです。パンフレットのはじめの文字は現在正面の額となってさがっている大切なもので当時のもの。なお松平氏の当社に対する理解と信仰は再建に大きな役割を果たしました。 四、宝物殿にあるもの 現存するものは天文4年以降のものがほとんどです。 宇佐美の軍刀・上杉為景(謙信の父)の起請文(天文2年)・謙信の高札の原稿・その後の武将たちの寄進状など・後陽成天皇の短冊・光格天皇の所持品の一部・松平定信の社名の額文字・船絵馬(住吉丸)−−−柏崎市指定文化財・その他棟札など 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |